今回は【三国志】の中で登場した
呉の国の皇帝「孫権(そんけん)」について解説をしていきます。
三国志の中でも呉といえば
赤壁の戦いや諸葛亮とのやり取りで有名な「周瑜(しゅうゆ)」や「魯粛(ろしゅく)」
関羽を倒すことに成功した「呂蒙(りょもう)」
夷陵の戦いで劉備軍を粉砕した「陸遜(りくそん)」
などの武将は有名です!
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しかし君主である孫権については
「ああ、呉の君主だね。」
ということはわかっていも、どんな人物だったのかと言われると
「……うーん…蜀を裏切った人?…」
「…他の武将はともかく、影がうすいよね?」
という、筆者個人としてもいまいちパッとしない印象がありました。
しかし調べていくうちに
「あれ?けっこうこの人すごいぞ!?」
と、なかなか印象がガラリと変わる人物だったのです!
とくに今回ご紹介する
「前編」
次回の
「中編」
は、その孫権のすごさがよく分かることが多いエピソードばかりなのです!!
というわけで今回から孫権の生涯は
どんな人生だったのか。
どんな人物だったのか。
奥さんや子孫、武将たちとの関係はどんなだったか。
そういったことについて、
前編
中編
後編
の三回に分けて詳しく解説していきますので、ぜひ最後まで御覧ください。
孫権簡単プロフィール
出身地:中国 下邳かひ(現在の江蘇省徐州市に位置する県級市の邳州市)
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生年月日:182年7月5日
死亡年月日:252年5月21日(享年70歳)
(年齢は現代の歳の数え方で行っています。)
猛将の息子として生まれた少年期
孫権の父は「孫堅(そんけん)」。
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当時の三国志の地名で「下邳(かひ)」という地域の生まれです。
孫堅は「孫子兵法(そんしへいほう)」という当時でも有名な兵法書を作ったと言われる
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「孫武(そんぶ)」
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の子孫と自称していました。
しかし、孫堅たちが活躍する時代よりも600年以上も前の話であり、系譜も残っていません。
ましてや孫堅の父親すら誰かもわからないのです。
しかし孫堅は戦いにめっぽう強く、地元で有名だった賊の首領をわずか17歳で討ち取ったり、数万人規模の反乱軍が起きたときには、1000人ほどの兵力で鎮圧するなど、その武勇は中華でも有名でした。
そんな父の次男の子としてこの世に生まれるのです。(五男三女の4番目の子供として誕生)
少年期その1:父の死と下積み時代
孫権が2歳のころ
「黄巾の乱(こうきんのらん)」が勃発します。
その反乱鎮圧のために孫堅は、「朱儁(しゅしゅん)」
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の元で鎮圧軍の将兵として参加。
孫権やその兄弟、母親たちはみんな、「揚州(ようしゅう)」の「寿春(ちしゅん)」という場所で待つことになります。
その5年後の孫権が7歳のころ。
父孫権が今度は「董卓(とうたく)」
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の暴政に対して連合軍の呼びかけに応じて参加。
その頃は「廬江(ろこう)」という場所におり、「周家(しゅうけ)」という名家と親しくなっていたため、兄弟や母親も含めてお世話になり、周家の屋敷で暮らしたのでした。
※この際孫権の兄「孫策(そんさく)」
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は、後の大親友でもあり、孫権軍の軍事トップにもなる
「周瑜(しゅうゆ)」
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と出会うことになります。
当然孫権も周瑜に会っていることでしょう。
2人は気が合う友達というだけでなく、義兄弟の契を交わすほどの仲となっていきます。
父親の孫堅が反董卓連合で多くの功績を遺し、当時朝廷とも強いつながりがあった
「袁術(えんじゅつ)」
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の下で働き、その袁術から気に入られて官職に就くのですが、袁術は従兄弟である
「袁紹(えんしょう)」
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と対立していき、
孫権が9際の頃には更に対立が激しくなります。
そして孫堅は袁紹派閥の荊州一帯を治めていた
「劉表(りゅうひょう)」
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を攻めた際、その配下の
「黄祖(こうそ)」
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に殺されてしまうのです。
こうして父親を亡くした孫権やその家族たちは、主君である袁術の下で働くようになっていくのでした。
少年期その2:兄孫策の活躍
11歳ごろの孫権はまだ、袁術の下にいました。
特に兄、孫策は正式に袁術参加の武将として働くことになりますが、その活躍によって孫家の地盤が出来上がることになるのです。
この頃袁術は「曹操(そうそう)」の軍に敗れており、
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揚州の寿春に拠点をおいていました。
正式な揚州刺史だった
「劉繇(りゅうよう)」
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は、「いやいや、私が本当の揚州刺史ですよ!?」
と対立。
しかし袁術はそんなこととは裏腹に、揚州近くの「廬江(ろこう)」を攻め、その地域を治めていた
「陸康(りくこう)」を討伐します。
※陸一族はこの時、揚州でも名家と言われた一族でした。
しかし袁術の指示の下、廬江にいた陸一族のほとんどが皆殺しにされてしまうのです。
その後、「呉(ご)」という場所に逃れていた陸一族の生き残りが孫家に仕え、いずれも名将として名を残すことになります。
代表的な武将としては、
「陸遜(りくそん)」
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「陸抗(りくこう)」
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になりますが、自分の祖先を皆殺しにした孫家に対して、少なからず怨恨を遺しており…
(一族を殺された陸遜たちはどんな思いで仕えたんでしょうね…)
この遠征では孫策の親友、周瑜も一緒に戦うことになり、孫策が率いる部隊が揚州一帯で名をあげることになります。
※この廬江遠征は、袁術が
「廬江の陸康を打ち破ることができれば、君を廬江太守にしてあげる。」
というやり取りを交わしていました。
そのため、陸康を打ち破って廬江を占領しましたが、約束を破って
「劉勲(りゅうくん)」を太守に任命してしまったのです。
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それ以前にも同様のことがあり、2回に渡って約束を破ったのです。
大きな功績を立てたのにも関わらず、ふさわしい恩賞がなかったことから、孫策は独立の意思を固くし、親友の周瑜もまたその志を支えていくことになるのでした。
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一方孫権はというと、まだ幼いために母親と共に孫堅のころからの忠臣だった
「朱治(しゅち)」
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に保護され、各地を転々としていました。
そんな孫権が13歳のころには、兄孫策が劉繇を撃破。
続いて翌年のころ。
孫権が14歳の頃には孫権も兄の軍勢に参加。兄およびその配下の武将も孫権を大変かわいがります。
この頃になると、父孫堅の配下の名将たちも孫策の配下として活躍。
揚州にある、「呉」や「会稽(かいけい)」という土地を次々と占領し、着々とその規模を拡大していきました。
孫権が17歳のころには、袁術の命令で廬江太守となっていた劉勲を破り、廬江を占領します。
(劉勲本人は曹操軍に逃亡。ほぼ無血状態で廬江の兵士を孫策軍は吸収します。)
さらにはその後、孫策軍は父孫堅の仇敵、「夏口(かこう)」地域を守る黄祖と衝突。
黄祖軍を撃破します。
こうして揚州地域一帯を平定し、孫策の支配地域を確固たるものにしたのでした。
地盤固めと大戦に奔走する青年期:前編
兄、孫策の目覚ましい活躍に目をつけた人物がいました。
それは曹操です。
曹操は孫策と同盟を結ぶために孫権の弟、「孫匡(そんきょう)」
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と、曹操の姪との間で縁談を行います。
また孫家側も「孫賁(そんほん:孫権のいとこ)」の娘を、
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曹操の息子の嫁として迎えるなど、両者の仲は良好になりつつありました。
しかし、曹操は対袁紹戦に向けて準備をしており、その間に長江流域の領土拡大のために
「陳登(ちんとう)」を討とうと計画します。
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そんな中、外出していた孫策が襲われ、亡くなってしまったのです。
重傷で運ばれた孫策は、孫権を次の跡継ぎに任命し、
補佐役として「張昭(ちょうしょう)」
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を任命します。
死に際、孫策は孫権に「兵士も率いて天下の争いをするのは、お前はオレにはかなわないけれど、才能ある者を見極め、この土地を守るような力を発揮するのはお前の方が上だ。」
という言葉を遺してこの世を去ります。
こうして兄を失って悲しみに浸るまもなく、孫権は自分の勢力を維持、拡大するという難題を抱えていくことになるのです。
孫権が18歳の時でした。
青年期前編その1:反乱鎮圧
孫権が18歳で孫策の跡をつぐようになったころ。
孫策が平定したはずの各地域反乱がおきたり、同じ孫家の中から裏切り者が出たりなどで3年間ほど自身の領土安定に努めることになります。
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孫策の下で支配下に置いていたのが、江東地域の六郡
「会稽(かいけい)」「呉郡(ごぐん)」「丹陽(たんよう)」「豫章(よしょう)」「盧陵(ろりょう)」「廬江(ろこう)」
という6つの地域でした。
しかしこの内反旗を翻したのが、
呉郡以外の5つの地域すべてが敵となったのです!
また、従兄弟の「孫輔(そんほ)」は曹操と内通していたことが発覚。
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もう一人の従兄弟「孫暠(そんこう)」も会稽の地で独立勢力を築こうと画策します。
こうした状況に孫権は各地域をまとめるために、臣下たちと強力して対処することをしていくのです。
まずは補佐役の張昭を筆頭に、孫堅や孫策の代からいた家臣
「周瑜(しゅうゆ)」
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「朱治(しゅち)」
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「程普(ていふ)」
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「呂範(りょはん)」
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などを招集。それらをまとめあげます。
※周瑜はこの時に、孫権が皇帝になる素質があると見抜いたとされています。
さらに積極的な人材雇用を行い、その中には
「魯粛(ろしゅく)」
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「陸遜(りくそん)」
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「諸葛瑾(しょかつきん)」
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「歩騭(ほしつ)」
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「呂岱(りょたい)」
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「徐盛(じょせい)」
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「朱桓(しゅかん)」
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など、その後孫権勢力を支える人材を多く採用し、各地域の平定と内政に取り組んでいきます。
まず父孫堅の時代からの忠臣で、猛将と名高い程普がその他将兵を率いて、
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丹陽・盧陵・豫章といった、3つの郡の平定に向かわせ、(資料によって違う場所の可能性もあります。)その全てを連戦して屈服させます。
その後、孫暠の反乱が会稽で起きようとしたところを、
臣下の「虞翻(ぐほん)」
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が説得します。
この説得に孫暠は応じ軍を撤退させ、孫暠はこの責任をとって官職を辞めるようになります。
廬江には、孫権自身と孫堅の腹心だった「孫河(そんか:孫の名字だが、兪(ゆ)の姓。孫堅に孫の姓をもらう。)」
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「徐根(じょこん:孫堅の妹の子。孫権とは従兄弟。)」
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を率いて廬江へ進軍。
廬江で反旗を翻したのは孫策の元臣下で、廬江太守に任命されていた「李術(りじゅつ)」でした。
李術は迫りくる孫権軍を前に、曹操へ援軍を求めることにしました。
しかし曹操の援軍は一向に来ず、そうこうしている内に城は包囲され、食料が底をついて城は堕ちてしまいます。
※李術が独立しようとした際、曹操を頼って独立しました。
その曹操からの援軍が来なかった理由として、曹操側が李術を快く思わなかったためと言われる説もありますが、孫権があらかじめ書状を送り、手を回していたと言われています。
しかし実際は「官渡の戦い(かんとのたたかい)」の真っ最中で、そんな余力もなかったのが真相ではないでしょうか?
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官渡の戦いでは曹操軍が4万なのに対して袁紹はその10倍以上、30万~50万とも言われているので、兵力や物資を李術に割くことができるはずもありません。
こうした理由も重なって、李術の独立は失敗したのではないでしょうか。
こうして各地の反乱を鎮圧し、孫権は一気に江東の地盤を固めていくのです。
青年期前編その2:仇敵と異民族との戦い
21歳の頃の孫権は、地盤固めが終わって勢いがついていました。
そこで今度は「江夏(こうか)」の地へと侵攻を開始し、父の仇である黄祖を討とうとします。
しかし、黄祖の守りは固く、中々うまくいきません。
そうこうしていると、江東の「山越異民族(さんえついみんぞく)」による反乱がおき、江夏侵攻は中止、撤退を余儀なくされます。
異民族の平定を優先した孫権は、
すぐに部下の程普や「賀斉(かせい)」
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たちを鎮圧に向かわせ、平定。異民族の地域も支配下において領土は拡大していきます。
※この期間に元黄祖の臣下である、「甘寧(かんねい)」
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が孫権の下に降伏してきます。
黄祖配下時の甘寧は、
孫権勢力内の「凌操(りょうそう)」
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という武将を討ち取るなど、数々の武功を上げた人物です。
(その後凌操の息子の「凌統(りょうとう)」
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に生涯恨まれることになります。)
しかしそんな甘寧を黄祖は冷遇するばかりか、甘寧の部下や食客らを引き抜いていくなどをしていたため、日々悶々としていた甘寧。
そんな甘寧をもっと重んじるように進言していた
「蘇飛(そひ)」
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という劉表配下の武将がおり、甘寧が黄祖の下を離れられたいと思っているのを知り、脱出できるように手引してくれます。
そうして甘寧は脱出し、その後孫権勢力に加わって活躍することになるのです。
しかし異民族との戦いは長きにわたりましたが、
孫権が25歳の時、
再び黄祖討伐に周瑜を中心とした部隊で侵攻します、またも黄祖を討伐できませんでした。
しかし翌年の26歳のころ、
ようやく黄祖を打ち取り江夏郡の南部を制圧することに成功します。
ここを足がかりに「荊州(けいしゅう)」全域に侵攻しようとしますが、事態は急展開を迎えます。
ついに、北の曹操軍が南へと侵攻してきたのです。
曹操軍との長い戦いをする青年期(後編)
「曹操軍が南下してきた!!」
その急報を受けて軍を江夏から引き上げて体制を整え、事態の把握に急ぎます。
曹操軍の軍団は、まず荊州へと向かっていると聞き、劉表との戦いになると思われましたが、
その最中に「劉表(りゅうひょう)」が亡くなってしまいます。
詳しい動向を探るために魯粛を派遣する孫権。
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すると、劉表の跡を継いだ「劉琮(りゅうそう)」
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が、曹操軍に降伏をしたのです。
さらに曹操軍からは、
「近ごろ罪状を数えたてて罪人を討伐せんとし、軍旗が南に向かったところ、劉琮はなんら抵抗もせず降伏した。今度は水軍80万の軍勢を整えて、将軍(あなた)とお会いして呉の地で狩猟をいたそうと思う。」
(反逆罪の罪人を討伐するために軍を出したら、劉琮は何も抵抗せずに降伏したぞ。今度は水軍80万で呉に行って罪人たちを狩ろうと思うからそのつもりで!)
という内容の書状が届きます。
これには孫権の臣下たちも震えてしまい、孫堅勢力内で「抗戦」か「降伏」で意見が分かれることになってしまいます。
悩んでいる孫権でしたが、ここである人物たちと会うことになります。
青年期後編その1:赤壁の戦い
派遣していた魯粛が戻り、ある人物と面会することになります。
その人物とは「諸葛亮(しょかつりょう)」。
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魯粛はこの時、劉琮の兄である、
「劉琦(りゅうき)」
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と、曹操軍の軍勢から逃亡してきた
「劉備(りゅうび)」
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と会っていました。
その際に、このまま攻め込んでくる曹操軍へ対抗するため、劉備の軍勢と同盟を結ぶことにします。
劉備陣営は快諾し、その使者として諸葛亮を派遣するのです。
孫権の補佐役だった張昭らを始め、臣下のほとんどが「降伏」を勧める中、
諸葛亮や「交戦」派の周瑜たちが戦う意思を伝えます。
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孫権自身も「交戦」派であり、「降伏」派である臣下に失望したと告げ、その後周瑜は曹操、孫権・劉備同盟軍の情勢を細かく分析、そしていかに勝てるかということを伝えたことで、孫権勢力は一気に徹底抗戦を決断するのでした。
※孫権はこの時、それでも降伏をする上奏文が送られたことに、机ごと剣で斬り、
「お前たちの中でこれ以上降伏するという者がいたら、この上奏文と同じ運命になると思え!」
といって、臣下たちを黙らせたと言います。
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こうして孫権勢力は戦の準備をするのですが、この時曹操軍は80万どころか、90万以上の兵力がありました。
それに対して孫権軍は、すぐに用意できる兵力でも3万人がやっとでした。
劉備勢力も数は少なく、2000人程度。(一説には1万人。)
劉琦軍も1万人ほどしかおらず、総勢4万~5万人しかおりません。
孫権は周瑜、程普に2万の軍勢の指揮権を与え、補佐役に魯粛を任命。
自身は1万の軍勢を率いて周瑜たちへ援軍を出しながら、後方で未だ鎮圧しきれていない「山越の異民族」の反乱を平定することにしました。
そんな状況で赤壁の戦いの火蓋は切っておとされたのです。
戦いは、「黄蓋(こうがい)」
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の火攻めによって孫権・劉備同盟軍が勝利!
さらに鳥林でも連勝します。
荊州の大部分は孫権・劉備連合軍が治める形となり、この勢いで孫権軍は、一気に北上。
「合肥(がっぴ)」へと進軍します。
攻略を開始しようとします。
しかし、連戦に次ぐ連戦で兵士たちの疲労、そして曹操軍は大敗しても、まだまだ兵力があることなどを臣下の「張紘(ちょうこう)」
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から忠告され、その忠告を聞いた孫権はここで軍を撤退させます。
こうして赤壁の戦いを勝利で終え、自身の領土を守り切ることができたのでした。
※孫権臣下の中に、「諸葛瑾(しょかつきん)」
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という、諸葛亮の兄がいました。
諸葛亮に会った孫権はなんとか自分たちの勢力に引き抜けないか、兄である諸葛瑾に相談したのだとか。
しかし諸葛瑾は、
「私があなたを裏切らないように、諸葛亮も劉備を裏切ることはないでしょう。」
と言って断ったといいます。
この言葉に感動した孫権は、諸葛瑾を信頼していくことになったのだとか。
諸葛亮も忠義心が強い人でしたが、兄の諸葛瑾も忠義心が強い人だったんですね。
さすが兄弟!
青年期後編その2:戦後処理と劉備への不信感
多大な活躍を見せ、荊州のほとんどを支配できたかに見えた孫権の軍勢。
しかし荊州の南部は劉備が借り入れることを孫権に提案してくる。
加えて荊州より西にある「益州(えきしゅう)」
の土地を、劉備自身が侵攻して取りに行くことを提案される。
当然却下し、周瑜が主とした「益州侵攻作戦」を実行します。
※この時劉備との親交の証として、
妹の「孫尚香(そんしょうこう)」
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を嫁がせ、劉備との親交を深いものにし、劉備の身柄を孫権が支配している「呉郡」に置こうとしましたが、失敗します。
その後、荊州の土地は孫権の臣下と劉備の臣下とで分割統治をすることで同意することになるのです。
「益州侵攻作戦」を実施しようとした最中、
孫権郡の中核にあった周瑜が病で倒れ亡くなってしまいます。
その後継者となった魯粛により
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「劉備と強調して、曹操軍と対抗しましょう!」
と方針を転換。
孫権はこの提案にのり、劉備を「荊州牧(けいしゅうぼく:荊州を統治する行政長官のこと)」に任命。
劉備も「西涼(せいりょう:中華全体でみたら北西の地域)」を占領したら荊州はお返しします。」
という約束をし、巴蜀侵攻を開始します。
こうして劉備との間で少ないながらも亀裂が入った両雄。
この亀裂が後々、大きな溝になっていくのです。
そうした劉備とのいざこざがあった年から2年後、
孫権が28歳になったころのことです。
中華の最南端に位置する「交州(こうしゅう:南海岸からベトナムにの北部まで広がるエリア)」
に「歩騭(ほしつ)」を「交州刺史(こうしゅうしし)」として派遣します。
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当時交州は「呉巨(ごきょ)」
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と「士燮(ししょう)」
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の一族がその地域を治めていました。
中でも呉巨は「荊州(けいしゅう)」地域
を治めていた「劉表(りゅうひょう)」
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の元配下であり、劉表死後は独自勢力として割拠していたのです。
歩騭は最初友好的に接し、呉巨も孫権に降伏しましたが、呉巨は素直に孫権に下るつもりはなく、裏切る気持ちがあったため(本当のところはわかりませんが…)
歩騭は会談の席でそのまま呉巨を斬り殺します。
呉巨はさらし首となり、その一件を聞いた士燮一族も孫権に降伏。
この降伏に反発した勢力も水軍を率いた歩騭が次々に攻め落としていき、
翌年の孫権が29歳になるころには、交州一帯を領有することに成功するのです。
意見が食い違う孫権勢力と劉備勢力。
孫権と劉備は最終的に、お互いの言い分に違いがでてきています。
例えば荊州の領有権について
孫権側は
「我々が領土を貸している。」
意見。
しかし劉備側は
「我々が平定した我々の領土」
という意見です。
これは孫権が曹操軍と戦っている最中であったとは言え、結果的には劉備軍が平定したという事実があるため、このように主張しているんですね。
しかし孫権からすれば、
「火事場泥棒」
そのもの。
兵力や食料、武器や資金にいたるまで、ほぼほぼ出しているにもかかわらず、さらに曹操軍を撃退している事実もあるわけなので、孫権側としては納得いくわけがありません。
結局は互いの利害が「対曹操軍」ということを踏まえて同盟関係を継続するわけですが、当初からかなり無理がある部分も多くあったと言えるでしょう。
その証拠として、周瑜は巴蜀を治めて「天下を二分」を以前から唱えています。
つまりはもともとの孫権側の構想になかったことが怒っているからこそ、ここまでチグハグな関係となっていったのではないでしょうか。
孫権の生涯「前半」筆者の見解
孫権は呉の皇帝となっていくのにも関わらず、
「孫策」
「周瑜」
などに比べると、地味な印象があります。
しかし、「孫策」が5年間で平定した各地はその死後反乱が立て続けに起こっています。
にもかかわらず、「孫権」はわずか3年で各地を平定しました。
また、父「孫堅」の仇も孫権は成し遂げています。
そういった活躍を考えたら、戦や統治の才能は兄「孫策」よりもずっと高いと言えるのではないでしょうか。
「単純に部下に恵まれただけじゃん。」
そう思うかもしれません。
しかしその部下に的確な場所で活躍できる場所を与えるのも、上司の役目。
それらを的確にこなしたからこそ赤壁の戦いも勝利に導くことができたと言えるでしょう。
今回はここまで!
次回の「中編」もぜひ御覧ください。
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