今回は『三国志』の実質的な主人公であり、「乱世の奸雄(らんせのかんゆう)」と言われた
「曹操(そうそう)」
についてご紹介いたします。
この曹操さんについてですが、
どういった人だったのか?
どういった人生を送ったのか?
どんな功績があったのか?
嫁はどんな人?
子孫はどうなったの?
それらをすべて語ろうとすると…
とてつもなく長い!!
というのも後の世に出る、正史『三国志』においても、その他媒体や文献においても、
情報量がやたらめったら非常に多い!!!
ゲームなんかも含めたら情報量膨大!
女体化も果たしてます!!
(美人に書きすぎ…)
筆者もいろいろまとめてたら大変でした!!
なので今回は、前編・中編・後編に分けてご紹介していきます。
前編は主にこの世に生を受けてから中年期の董卓からの逃亡までを…
中編は主に中年期の怒涛の戦争ラッシュがある反董卓連合から赤壁の戦いまでを…
3つの構成で詳しく述べてまいります。
ただ、主に述べていくのは
・どんな生涯だったのか
・どんな人物だったのか
・どんな人と関わって、どんな風に思ったのか
・おもしろエピソードや功績
などを主に書いていきますので、戦いそのものは詳しく述べていくことはほとんどしません。ので、あらかじめご了承ください。
曹操の簡単プロフィール
出身:中国 豫州豫州沛国譙県
(現在の安徽省亳州市譙城区)
生誕:西暦155年
没年:西暦220年3月15日 享年65歳
曹操の生涯その1(0~20歳):曹家の養子
曹操の出自として、養子として曹家に入ったと言われています。
それ以前のことについては未だに判明しておらず、一節には夏侯家出身じゃあないのかと言われてますが、厳密にはわかっていません。
(正史では出自不明とされている。)
※ちなみに曹家も夏侯家も名門の出であり、その後に活躍する曹操のいとこたちがたくさんいます。
代表的なのが、
曹家:曹仁 曹江
夏侯家:夏侯惇 夏侯淵
などです。
(曹家はこの後曹操の子供や曹仁の子供なども出てくるので、ややこしくなってきちゃう…)
地元でも有名な悪ガキ
曹操は小さい頃から頭の回転が早かったようで、知識があるというよりも、その場その場で柔軟に対応できるだけの返答や、どんなことも鋭く観察してその場に応じた対応ができる人だったそうです。
ただこれは良いように書いてますが、当時はかなりの悪ガキという評判があり、
特に好きな物が、
酒・女だったらしい。
なので、地元の悪ガキとつるんで女遊びをしたり、酒を飲んでは喧嘩をしたりといったこともしていたという、漫画の蒼天航路での出来事は、本当のことだと思います。
(アモーレはさすがにないと思うけど、蒼天航路の曹操さんマジかっこいい…)
頭がキレることはたしかだったようで、このようなエピソードが残っています。
当時の曹操は、あまりにも好き勝手やっていたため、曹操の叔父が良く思っていませんでした。
たびたび父親の「曹嵩(そうこう)」に
「曹操は今日〇〇して〇〇をしていた!父親のお前がなんとかせんかい!」
と告げ口するので、曹操も
「叔父さん、うっとうしいなあ~」
と思っていたようです。
ある日そんな叔父と偶然道で会ってしまいます。
そこで曹操は口を曲げて顔面を崩した姿をし、叔父が
「曹操、どうしたのだ?」
と尋ねると
「突然ひどい顔面麻痺にかかりまして…」
と言ったのだとか。
それを信じた叔父は曹嵩にもそれを報告。
心配になった曹嵩は曹操に訪ねますが、曹操は普通の顔で過ごしています。
「叔父さんからお前が麻痺病にかかって聞いたんだが、もう治ったのか?」
と聞いてみると、
「え?なんのこと?麻痺病なんてかかってないけど?叔父さんオレのこと気に入らないから、嘘ついたんじゃない?」
と言ったのだとか。
それから、曹嵩は叔父さんが曹操のことをいろいろ告げ口しても、全く信じなくなり、曹操はますますやりたい放題したのだとか。
こういったことから、曹操は頭が回る子供だったことがわかります。
でも町中の人や有識人からは、普段の行いなどから嫌われたり、ましてや出世なんかしないだろうと思っていたようですね。
名士には一目置かれる
そんなやんちゃな曹操について、高く評価した人物もいました。
それが
橋玄(きょうげん)、何顒(かぎょう)、許劭(きょしょう)
という人物たち。
この人たちは有名な名士たちで、権力者ともつながりが大きい人物でした。
出世するにはこういった人物たちから評価されるのが重要な時代でもあったのです。
蒼天航路でも描かれていますが曹操は悪知恵が働くだけでなく、罪人には罪人として容赦しない、自分の正義を曲げない人物でした。
そんな曹操を、名士たちはこのように評価しています。
橋玄場合
「天下はまさに乱れようとしている。一世を風靡する才能がなければ救済できぬであろう。乱世を鎮められるのは君であろうか」※正史より
「ずいぶん天下の名士に会ったが、君のような者は初めてだ。君は自分を大事にしなさい。わしは年をとった。妻子をよろしく頼みたいものだ」※魏書より
何顒の場合
「漢王朝はまさに滅びようとしている、天下を安んじるのは必ずこの人だ」
後にこの何顒は、曹操の名軍師として名高い「荀彧(じゅんいく)」のことを『王佐の才(王様を補佐するほど有能な才能を持った人物)』として評価しています。
許劭の場合
「君は治世にあっては能臣、乱世にあってが奸雄だ」※異同雑語より
※このときに初めて後の世に伝わる『乱世の奸雄』という、曹操の代表的な呼ばれ方をされています。
この一文の意味としては、
「世の中が平和な内は有能な臣下として働くけれど、乱世になるとずる賢い英雄になるだろう」
という意味。
これを聞いた曹操は大笑いしたのだとか。
このように曹操は悪ガキではあるものの、名士からも評価されるような一目置かれる人物となり、その後、都である洛陽で働くようになります。
曹操の生涯その2(20~32歳):動乱期となる青年期
20歳になった頃の曹操は、国や郡部から学問や人格に優れた人材を中央に推薦して特別な役人として育てる制度「孝廉(こうりょ)」に選ばれ、朝廷の中央役人として「洛陽(らくよう)」で働くことになります。
しかし当時の洛陽は、賄賂などは当たり前に行われ、政治争いも、帝のお嫁さんの一族に当たる「外戚(がいせき)」と、政治を実際に行いながら帝を補佐する役割をしていた「宦官(かんがん)」との間で争っているような、めちゃくちゃな状態でした。
そんないざこざが絶えない洛陽の北部に曹操は着任し、仕事をする中でその腐敗っぷりを味わうことになり、さらには世の中が大きく変わっていくことになります。
波乱万丈な出世(20~28歳)
この時の曹操の仕事は違反者を取り締まる警察のような役割をしていました。
そんな仕事をしていたある日の夜のことです。
曹操が赴任している門を、夜中で出入りを禁止しているのにも関わらず、無理やり通ろうとする人が現れます。
それが当時の「霊帝(れいてい、当時の漢の国の皇帝の名前)」のお気に入りだった宦官、「蹇碩(けんせき)」の叔父に当たる人でした。
当然権力者。
この人は門番に賄賂を渡したり、自分の権力をかざして通ろうとするのです。
ただし夜中に門の出入りをすることは法律で禁止されており、その法律を犯した場合は厳罰とされていました。
当時は盗賊などもいて、治安維持のために厳しい法律が多かったのです。
ところが曹操は権力者であることにも関わらず、即座にこの人物を捕らえ、法令を犯したからということで打ち殺したのです。
これに宦官たちは、曹操を追放しようといろいろと考えます!
しかし曹操自身はルール通りにしただけ。
そのため付け入るスキがありません。
そこで宦官たちは地方の県令(今で言う県知事に近い役職)に栄転させるということで、洛陽から遠ざけることにしたのです。
こうして曹操は政治の中心都市である洛陽が、今どんな状態にあるかを目の当たりにしたのでした。
この後曹操は数年の間、表舞台には姿を現すことがなくなります。
※一節にはこの頃に3人の女性と結婚、妾として迎え入れた人がいます。
第一夫人の「劉夫人(りゅうふじん)」。
記録によっては側室とも言われていますが、子供を産んで早い内に亡くなっています。
その子供が「曹昂(そうこう)」、「曹鑠(そうしゃく)」。
曹昂は後に悲しくも大きな活躍があります。
第二夫人「丁夫人(ていふじん)」。
身分の高い家柄であり、最初の正室。
子宝に恵まれなかったが、劉夫人亡き後、曹昂、曹鑠を我が子同然に育てた女性。
第三夫人「卞夫人(べんふじん)」。
元々は家柄も不明で身分が低く、歌妓(日本でいうところの芸子さんのようなもの)だったが、曹操に見初められた。
このときはまだ妾としての存在だが、後に正室入り。魏の初代皇帝でもあり、曹操の実質後を継ぐことになる「曹丕(そうひ)」を生むことになる。
「黄巾の乱」勃発(29~32歳)
曹操が29歳ごろのこと。
地方の1宗教にすぎなかった「太平道(たいへいどう)」という宗教団体が、黄色い頭巾を目印に朝廷に反乱を起こす運動が勃発しました。
後の「黄巾の乱(こうきんのらん)」と言われるものの始まりです!
当時は朝廷も
「放っておいても地方の者に任せればすぐ治まるだろう。」
と思っていたところ、まったくそんなことはなく次第に規模が拡大!
次第に規模は大きくなって100万人規模にまで広がっていき、中国全土で暴徒化して盗賊となって暴れまわっていました。
首謀者は「張角(ちょうかく)」。
太平道の教祖であり、元々は役人だった人物です。
張角は、病にかかった人を自身が清めた水で病を治させたり、罪がある人には救いの道がありますよと言っては救済の道を作ったりと、信者を着実に集めていったのだとか。
※このころの中国は、朝廷が税金(当時は金品だけじゃなく、食料なども含みます。)を人々にかなりの額を要求していたためか、日々の食事もまともにとれない人ばかりだったそうです。
当然病気になっても薬も買えず、ますます貧困にあえぐばかり。
生きていくためにはこういった宗教にもすがりたくなったのでしょうね。
こうして人々の意識は団結し、ついには
「蒼天すでに死す、黄天まさに立つべし。歳は甲子に在りて、天下大吉!」
(政府は既に死んだ。 次に立つべきは、(赤の次の)黄色い天(私達)である。 時は、まさに革命の歳を告げる甲子の歳である。 さぁ、革命に立ち上がろう!!)
というスローガンを掲げて革命に踏み切ったのです。
次第に勢力を増す黄巾党に、朝廷がようやく軍を出します。
この時にその軍を率いていたのは
「皇甫嵩(こうほすう)」や「朱儁(しゅしゅん)」
という武将であり、曹操もその軍に参加することになります。
この時曹操は人生で初めての初陣となります。
この戦いで、朝廷の軍は大勝利!
首謀者である張角はすでに病気で亡くなっていましたが、その弟であり、黄巾党軍を動かしていた「張宝(ちょうほう)」「張梁(ちょうりょう)」らは敗死したため、黄巾党の乱自体は終息していくことになります。
※ちなみに首謀者の張角は仙人と会って仙術を学び、不思議な力で人々の病を直したのだとか。
更にはその弟たちも仙術が使えたとか使えないとか…
無双シリーズの曹操編では大抵一番最初のステージが対黄巾党なので、印象に残っている人も多いはず…。
黄巾党の反乱鎮圧時に、曹操がどのような戦いをしたのかは詳しくはわかっていません。
しかし少なくともその功績によって、「済南(せいなん)」という郡の「相(そう、今で言う領主)」に任命され、昇進したという記録が残っているので、何かしらの大きな戦果を上げたのではないでしょうか。
そしてこの済南でも汚職をしている官職員を辞めさせたり、邪教を崇拝することを禁止したりと、曹操が統治していたこの地区は比較的平穏な場所として評価されていったようです。
そういった実績からまた出世の声がかかるのですが、その官職に就くのを曹操は断ります。
以前にも出世時に別の場所に赴任するような、左遷があったためでしょう。
そうして曹操はしばらくの間、隠遁生活をおくることになります。
※この間に卞夫人が曹丕を産んでいる。だんだんと子沢山になる曹操。
曹操の生涯その3(33~34歳)逃亡者曹操
33歳の時。隠遁生活を続けていた曹操でしたが、黄巾党を討伐した功績から、
朝廷に
「西園八校尉(せいえんはちこうい)」
の一人として任命されることになります。
これはその当時の帝、霊帝直属の部隊であり、その全員で8名いる諸侯の一人になったことで、大きく出生することになります。
このときに、少年の頃に非常に仲が良く、面倒を見てくれた先輩「袁紹(えんしょう)」も、その一員となっております。
袁紹は家柄が名門でありながら、幼い頃来る者拒まずで謙虚な物腰だっため、いろんな人に好かれ、地方や中央の名士とも仲が良くする人物。
もちろん曹操とも交友があり、同じ学問を学んだ身。
曹操は袁紹のことを
「兄貴!」
と親しみを込めてつるんでいたのだとか。
そうした間柄もあったためか、袁紹から曹操をこの役職にするよう口添えがあったのかもしれません。
※この8人の中に、蹇碩がいます。
彼の叔父は曹操が20代の頃に法律に法って殺しているので、何かしら恨みがあっても仕方ありません。
しかも帝のお気に入りなので曹操は選ばれないと思われます。
しかしそれでも選ばれたのは、もしかしたら袁紹のおかげ?
そうして出世した曹操ですが、この後非常に凶悪な人物が洛陽に入り、実権を握る騒乱が幕を開けます。
怪物「董卓(とうたく)」登場
朝廷が腐敗している原因は何なのか?
それは宦官が原因ではないか?という空気が次第に強くなります。
そうした中、大将軍である「何進(かしん、妹が霊帝のお嫁さんになり、権力を握っている外戚の権力者)」が各諸侯に、
「宦官粛清計画があるから有力な諸侯は洛陽に集合!」
と呼びかけます。
※この招集については一説であり、不確かな部分もあります。
本来はこの後の後継者争いに袁紹が各地方の有力者を集めて次期皇帝を選ぶために集合と言ったという話があったため、その後の事件に繋がったのが有力な説らしい。
曹操はこれに反対します。
自分の父親も宦官であり、宦官を粛清したところで根本的な解決にはならないと判断したためでしょう。
そんなことがあった翌年、
曹操が34歳の時に大事件が立て続けに起こるのです。
1回目の大事件は4月におきました。
その当時皇帝だった霊帝が病で亡くなってしまいました。
このことから西園八校尉という皇帝の側近職が機能しなくなったのです。
2回目は大事件は8月におきました。
宦官粛清計画の首謀者であった何進が、宦官に暗殺されてしまったのです。
ことの一件を知った袁紹と、その一族である「袁術(えんじゅつ)」は、何進の仇を取るのと宦官粛清計画を実行に移すため宮殿に攻め込み、宦官を皆殺しにします。
もはや宮中は政治どころではなく、大混乱!
袁紹は帝の後継者とその弟を探しますが、見つかりません。
どうやら宦官が手引して逃げたようなのです。
このままでは逆賊扱いになる可能性もあります。
焦った袁紹でしたが、自体はもっと最悪の方向に向いました。
3回目の大事件はその直後
帝を半ば強引に手引して逃げていた宦官。
しかしある人物がその宦官たちを殺し、いち早く後継者候補の帝の子供2人を保護。
宮殿に入ってきたのです。
それが「董卓(とうたく)」。
董卓は帝を保護した名目で悠々と宮殿に凱旋。
しかも次の帝候補であった少帝弁(しょうていべん)を独断で廃し、弟の献帝協(けんていきょう)を皇帝とすると宣言。
さらにはその後見人として、実質、国のトップとなったのです。
董卓の独裁政治と曹操逃亡
権力者となった董卓は、黄巾の乱を起こしたのは宦官の責任であると次々処刑します。
政治にも手を加えていき、逆らった者は容赦なく処刑をしていきました。
そんな中、曹操の有能さを知った董卓は、都の官職に就かないかと誘うようになります。
つまりは部下にならないかと誘ってきたのです。
曹操はその誘いに対して
「あいつの時代は長くは続かないな…」
と判断してその誘いを拒否。
こうした董卓の誘いを断るということは、逆らう者として処刑される可能性があります。
曹操は自分の妻や子供たちを都の洛陽において、故郷に急いで帰ることにしたのでした。
※ちなみにこの時の妻や子供たちは、袁術が保護して曹操の元に連れ帰っています。
袁術やさし…
さらにこの時、董卓を暗殺しようと計画していた話もあります。
それが露見したため、いち早く逃げたのだとか…
この逃亡、曹操と一緒に行動した人物がいます。
その名も「陳宮(ちんきゅう)」。
若い頃から勇敢で信念を曲げない人で、曹操に仕えていた人物の甥っ子に当たる人物です。
陳宮は昔から
「曹操様に何かあったら手助けをしてあげてくれ!」
と叔父に言われていたため、逃走の手助けをしたと言われています。
叔父の言葉とは裏腹に、一度役人として曹操を捕らえていました。
しかし牢屋の中で曹操と腹を割って話した際に、曹操の想いや人柄に触れたことで、
「この人こそ私が仕える人だ!!私は官職(仕事)をやめて、あなたに付き従います!!」
と、一緒に逃げることにしたのでした。
そんな陳宮との逃亡中、「呂伯奢(りょはくしょ)」という人物の元に立ち寄ります。
この呂伯奢は曹操の父親と非常に仲が良くて、曹操とも面識がある人物です。
呂伯奢本人は留守でしたが、その家族に暖かく迎えられる曹操のたち。
しかし、どうも態度や言動がおかしい。
もしかしたら手配書を見て自分たちを捉えるつもりか…と疑心暗鬼になりました。
その後、食器の音や「縛って殺そう」などとボソボソ話しているのが聞こえ、殺される前に殺そうと一家を全員殺してしまいます。
しかし、ボソボソと話していたのは生きたイノシシを料理しようとしたからで、勘違いから生まれた事件でした。
この時に曹操は
「オレが人を裏切ろうとも、人にオレを裏切らせはしない。」
と言葉を残したそうです。
※その後、呂伯奢本人も殺したという話もありますが、これは定かではありません。
しかしこの事件がきっかけで、陳宮は曹操のことを信用しきれなくなったのでした。
こうして曹操は自分の故郷に帰ることができたのでした。
曹操の生涯前半(0~34歳)について筆者の感想
いかがでしたか?
曹操の人生ではまだまだ序の口で、ここから怒涛の勢いで戦いの日々が待っています。
そのきっかけとも言うべき
「黄巾の乱」
「宦官粛清」
「董卓登場」
になるわけですね。
ちなみにですが、最後の曹操の逃亡時のエピソードについては、曹操自身の強がりが出ていた場面でもあると思われます。
文面だけを見ると、
「オレが人を裏切ってもいいけど、人がオレを裏切るのはだめ!」
に見えます。
しかしよ~く読んでみると、こうも解釈できます。
「オレが人の期待を裏切ってしまっても、オレに対する人の期待は絶対に裏切らせはしない。」
とも見えてしまいます。
全然意味合いが違いますよね?
これは筆者の勝手な解釈ではありますが、曹操はこの時にある程度人間としての度量の大きさを身につける必要性を感じたのではないでしょうか。
その証拠にこの後、曹操の配下である「昌豨(しょうき)」という人物が何度も裏切ることになるのですが、何度も何度も許しています。
その他陳宮についても、何度も自分の元に帰ってくるよう迫っています。
曹操は決して裏切った人に容赦のない人間ではなく、度量の大きい人物だったのではないでしょうか。
今回はここまで。
「曹操の生涯・中編」に続きます。
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