今回は三国志の中でも屈指の人気があって、主人公としても名高い。
「劉備(りゅうび:字は玄徳(げんとく))」について解説をしていきたいと思います。
劉備については様々な書籍やアニメの主人公としても活躍しているので、
知っている人も多いのではないでしょうか。
でもその生い立ちや人間関係。
そしてどんな人間だったのか。
嫁との関係は?
本当は〇〇だったって本当?
さまざまな題材に登場する劉備について、これからゲームやアニメ、ドラマを見る人に向けて
詳しく解説していきますので、どうぞ最後までご覧ください。
ちなみに「正史三国志(せいしさんごくし)」「三国志演義(さんごくしえんぎ)」
で活躍している描写が違っていますが、あくまでこちらでは「正史三国志」をベースとして人物紹介とさせていただきます。
劉備紹介解説は、
「前編」「中編」「後編」
の三部構成となっておりますので、ぜひそれらもご覧いただけたら幸いです。
今回は「前編」となります。
劉備簡単プロフィール
名前:劉備 字(あざな)は「玄徳」
身長:173cm
出身:中国 涿(たく)郡涿県楼桑里 =現在の河北省保定市涿州市辺り
生年:西暦161年
没年:西暦223年6月10日
劉備の生涯その1(0~22歳):貧乏少年劉備
劉備の生家は元々劉の一族、その当時の「帝(みかど)」の家系に当たると言われています。
ただし、それは不確かな情報ということも言われています。
というのも、劉備が生まれる250年以上前のご先祖が、当時の王朝への上納金を治めることが出来なかったことで、庶民の位に落とされているのだとか。
なので、本当に劉備が漢王朝の末裔かと言われると…
疑わしいのが事実。
いずれにしても劉備は、そんな先祖がいると言われている家庭に生まれ落ちたのです。
貧乏でも夢は大きく
劉備は父、「劉弘(りゅうこう)」の一人息子として誕生した。
兄弟はおらず、父親は県の長官という立場であり、小豪族としてそれなりの生活ができた家庭でした。
しかし、劉備が幼いころに父親が急死します。
そのころから劉備の家庭は貧しくなっていき、母親と共に藁を編んではわらじやむしろを売ってなんとか生活ができるほどになってしまったのです。
そんな家庭でもスクスク育つ劉備少年。
ある時劉備は家の前に生えている大きな桑の木を見て、
「大人になったら、天子様が乗っている馬車に乗ってみたいなあ~。」
という夢を持ちます。
そんな劉備に叔父は
「お前滅多なことを言うもんじゃない!!そんなことを口にするだけでお前やお母ちゃんだけじゃなく、一族全員が皆殺しになるんだぞ!!」
と言って叱ったのだとか。
そんな貧乏な家庭でも叔父などの助けもあって、スクスクと育っていくようになります。
勉強よりもファッションや友達優先!!
劉備が15歳になったころ。
母親が勉強をするよう親戚の援助もあって、儒学者で有名な
「盧植(ろしょく)」の下で勉強をするようになります。
この時に同じように門下生として一緒に学んだ人に
「公孫瓚(こうそんさん)」
という人物や
「牽招(けんしょう)」
などと仲良くなり、特に公孫瓚のことを「兄貴!!」と呼んで慕うようになります。
※牽招は史実のみに登場する人で、劉備が
「刎頸の交わり(ふんけいのまじわり:お前のためなら自分の首をはねられたって良い!という意味)」
と誓った仲だったのだとか
牽招は師匠の棺を賊から命がけで守るという、仁義を守るような男。
劉備もまた、仁義を大切にするという気持ちが強いので、2人は意気投合したのでしょう。
しかし盧植の門下生として2人が交友した意外、生涯再会することはありませんでした。
また、牽招の息子はその後、蜀を滅ぼすことになります。
運命とは本当に予想できないですね…
劉備たちはまともに勉強…するはずもなく、よく遊んでいたようです。
特に乗馬や音楽、またまたファッションなどにも興味を持って身なりを気にしていたのだとか。
こうして学生時代を謳歌した劉備。
しかし、ただ遊んでいたわけではありません。
というのも劉備は、いろんな人と接点を持ちたがる人でした。
特に地元の豪族や豪商と言われる人たちと好んで交友を結んだりしたため、劉備には若者らも自然と集うようになっていったそうです。
※劉備は喜怒哀楽などの感情表現をあまり表に出さず、さらには口数も少なかったのだとか。
しかし進んで権力者などと面識を持って、さらに好感を得ているのですから、不思議な魅力があったのは事実なのでしょう。
記録としてはその見た目についてもある程度残っていて、
「腕が膝下まで伸びていて長かった。」
「耳が大きくて横目で自分の耳が見えるほどだった。」
つまりは福耳だった?
容姿についてかなり特徴があったらしいのです。(画像も福耳に見えなくも…ない…)
古来中国でこれらの特徴は吉兆の証と言われていて、その見た目もあってか人に好かれる人物だったのかもしれません。
劉備の生涯その2(23~30歳):劉備ついに戦場へ!
劉備が23歳の時、いよいよ戦場に出る機会が訪れます。
それが「黄巾の乱(こうきんのらん)」
首謀者の「張角(ちょうかく)」
を中心とした、生活に困窮した庶民ら起こした反乱です。
この反乱が、劉備が住んでいる地域でも盛んになっていきます。
最初は官僚などを狙っていたものの、次第に賊となって一般市民も犠牲になっていったことから、軍も出ていくことになっていき、さらには義勇軍も集うことになるのです。
義勇軍への参加と生涯の仲間
黄巾の乱が起こってしばらくし、義勇軍が発足しました。
この義勇軍に、劉備は参加することになります。
参加した義勇軍の中には、
「関羽(かんう)」
「張飛(ちょうひ)」
「簡雍(かんよう)」
と言った、後に蜀建国まで苦楽を共にする仲間や
「田豫(でんよ)」
と言った、後に異民族の平定などで活躍する名将などもおり
その後の劉備の活躍が飛躍する要因となる人材が、周りに集うことになっていきます。
この義勇軍は
「鄒靖(すうせい)」
という官軍が指揮を行い、一緒に従軍。
黄巾賊の討伐で各地を転戦することになります。
※「桃園の誓い(とうえんのちかい)」
という、劉備・関羽・張飛の義兄弟の契を交わす有名なエピソードがあります。
しかしこれはフィクション。
そんな事実はないと言われています。
筆者の勝手な憶測ですが、もしかしたら牽招と行った「刎頸の交わり」から脚色してフィクションにしたのではないかと思われます。
その理由としては、「三国志演義(さんごくしえんぎ)」に牽招は登場していないからです。
もし登場していたら、その後劉備の義兄弟の契の重要性が薄くなる可能性が出てきますしね。
また、黄巾の乱以前の関羽、張飛も史実と演義ではイメージが若干違います。
まず関羽は当時、完全にお尋ね者。
関羽は生まれた地元の豪族を殺してしまい、役人から逃亡して劉備のところまで来ていたのでした。
そして張飛は元々精肉店の家ですが、店を構えるほど繁盛していました。
当時の肉屋は屋台でその場で測り売りするところがほとんどで、張飛の家のように貯蔵庫を持って、保管できる井戸などがあったのはかなり裕福な家。
ある意味、お金持ちのお坊ちゃんとも言えるのかもしれません。
功績を遺した劉備!…しかし…
黄巾賊討伐の功績によって、劉備は地方の県尉(今で言う警察署長)に任命されます。
しかしその直後、郡の監察官が来たということで、面会しようとしたら断られました。
その対応の仕方にキレた劉備。
無理やり捕らえて、木に縛り付けたあげく、杖で200回も殴打!!
(三国志演義では張飛がやったことになっていますが、本来史実では劉備がやっています。)
冷静になった劉備は、
「やっちゃった!!」
と思ったのでしょう。
そのまま県尉の証でもある印綬を検察官の首にかけ、逃走!
官職を自分から辞退することになります。
その後は黄巾党の残党と戦いながら各地を転戦。
官職に付ける機会が何度も訪れるのですが、短期間で辞めて、また器用されるを繰り返します。
そうして青年期は、今で言う要請団の隊長のように、各地を転々とする日々を送ることになるのです。
三国志演義で劉備たちはここで、「反董卓連合(はんとうたくれんごう)」に加わり
「董卓(とうたく)」
や
「呂布(ちょふ)」
と戦い、劉備たちは功績を上げることになりますが、あれはすべてフィクションです。
そもそも劉備たちがその戦いに参加した記録もありません。
(当時の劉備たちの境遇を考えれば当然かも…)
例えば董卓軍の猛将、「華雄(かゆう)」
を、関羽が一撃で討ち取るというシーン。
これはフィクションで、本来は「孫堅(そんけん)」
が討ち取っています。
呂不が劉備義兄弟全員で切りかかったのもフィクション。
これらはこの時期の劉備らの目立った活躍がないために出来た物語なのです。
そもそもこの頃の劉備たちは傭兵団のような扱いなので、その境遇を考えれば当然かもしれませんね…
劉備の人生その3(30~33歳):一勢力としての出世
30歳の頃の劉備は、旧知の中でもある「公孫瓚(こうそんさん)」のところにいました。
公孫瓚はこの時、「袁紹(えんしょう)」
との戦いの真っ只中。
公孫瓚の部下でもある「田楷(でんかい)」
を劉備は助ける形で戦っていました。
その戦いぶりを見た公孫瓚は推薦して「平原(へいげん)」という地域を治めることを提案。
劉備はこれに快諾します。
劉備が平原に在任中は、賊の侵入を防いだり、身分差別もしなかったことから、
多くの人から信頼を得たのだとか。
そうした劉備のとりまく環境は、この辺りから一気に急展開することになります。
人望を集める劉備
劉備31歳の頃。
袁紹と同族になる「袁術(えんじゅつ)」
この両者が真向から対立することになります。
公孫瓚は袁術と同盟関係の間柄。
その対立に、劉備は巻き込まれることになるのです。
その翌年、劉備が32歳になる頃に、「曹操(そうそう)」
が「徐州(じょしゅう)」に侵攻を開始します。
実はこの時、徐州を治める「陶謙(とうけん)」
が曹操の父親を殺してしまい、曹操は報復として軍を起こしたのです。
しかも女子供関係なく、大虐殺が行われているということ!
陶謙もこれには同盟関係にある公孫瓚などに救援を送ります。
劉備は田楷と一緒になって陶謙の下に行き、曹操軍と対立。
お互い決着がつかない状態になります。
※実はこの曹操の徐州侵攻時、後に劉備配下となって「天下三分の計(てんかさんぶんのけい)」や「漢蜀(かんしょく)」の丞相として大活躍する人物
「諸葛亮(しょかつりょう)」
もこの混乱の中にいたと言われています。
諸葛亮はこの時、兄たちと共に南に逃げ、大虐殺を免れたのだとか。
一歩間違えたら諸葛亮と劉備は出会うこともなかったのかも!?
劉備が33歳のころ。
劉備たちの必死な防衛により曹操軍は撤退。
これに陶謙は劉備のことをものすごく気に入ります。
また、徐州の大地主である
「麋竺(びじく)」
に気に入られるなど、数々縁と出会いも果たしています。
さらにさらに事態は一変します。
今度は陶謙の病が重くなってしまうのです。
画像
もう死に際と思った陶謙。
劉備に自分が死んだ後、徐州を代わりに治めるよう頼むのです。
劉備は突然のことで、そんなつもりがないと断りますが、陶謙配下で親交があった、
「陳登(ちんとう)」
「孔融(こうゆう)」
などの説得を経て、陶謙死後に徐州の治めるようになりました。
その後劉備配下には
「孫乾(そんかん)」
「陳羣(ちんぐん)」
「陳到(ちんとう)」
など、その後も行動を共にする仲間が配下となっていくのです。
(陳羣は途中から曹操軍配下となりますが…)
※この頃に劉備の実子を生むことになる「甘夫人(かんふじん)」
と出会い、側室として迎えています。
なぜ側室なのか?という理由については諸説ありますが、
一番有力なのが、
「このころすでに正室としている女性がいた。」
ということ。
その後も劉備には何人もの女性と結婚をするのですが、
いずれも子供に恵まれませんでした。
(子供が生まれないから養子をとったほど!!)
しかしこの甘夫人だけには子供が出来たので、
「劉備は女性に興味がなかったのでは?」
という噂にもなったのでした。
ちなみにその後も甘夫人は側室という身分ながら跡取りを生んだことで
劉備の大奥内では絶大な権力があったのだとか。
波乱の幕開け
順調に出生しているかに思えた劉備でしたが、事態が急変!!
曹操側がある人物と激戦、勝利したのですが、敗北したその人物たちが徐州に助けを求めてやって来てしまったのです。
その人物とは「呂布(りょふ)」。
呂布は劉備に助けを求めると、劉備は心良く出迎えます。
当時呂布は「逆賊董卓征伐(ぎゃくぞくとうばつせいばつ」という名で英雄視もされていました。
(呂布の元主君でしたが…)
劉備はそんな功績のある人物だからこそ、優しく迎えいれるのでしょう。
しかし、それは見事裏切られます。
呂布を迎え入れて1ヶ月ほどたったある日。
袁術との戦いをしている最中に部下が裏切り、呂布と結託して劉備の本拠地を占領。
妻子も囚われの身となってしまったため、劉備は引き返します。
その後人質を盗られている劉備は「小沛(しょうはい)」という場所にまで半ば追放され、
苦境に立たされます。
そんな劉備を救ったのが麋竺。
彼は自分の財産などを劉備に渡し、支援してくれたのです。
その後、劉備は恩がある麋竺の妹と結婚。
麋竺を始め、その一族を劉備はその後も大切にすることになります。
そうして劉備は兵力を1万人にまで取り戻しますが、呂布が劉備の戦力が回復する前に再び攻撃。
劉備は仕方なく、曹操を頼ることになるのです。
ここで初めて曹操と劉備がまともに会うことになります。
曹操は劉備のことをすごく気に入り、小沛へと移れるように援助をしていきます。
ここでの曹操と劉備の仲は、作品によっては非常に悪かったように描いていますが
史実では非常に仲が良かったのだとか。
この時に劉備配下の関羽や張飛など、各武将とも曹操は会ったと言われています。
その後劉備はしばらく曹操の下で働きながら、自分たちの今後の動向を考えていくのでした。
劉備の生涯前編(0~33歳)の筆者の感想
いかがでしたでしょうか?
劉備は30歳になった辺りから徐々に名前が上がるようになっていくのですが、
30代後半になると、また状況が激変していくことになりますね。
前半の中でも一番の見どころと言えば、関羽・張飛との出会いでしょうが、もう一人重要な人物と出会っています。
それが「趙雲(ちょううん)」!
趙雲との出会いは、劉備が公孫瓚の元で働いていた時に、田楷の救援部隊で共に戦ったのだとか。
そうした縁があり、さらに劉備に惹かれた趙雲はその後、
劉備配下となって大活躍することになるのです。
こうした出会いに恵まれたのは、劉備の本当にすごいことだと思いますし、
本人がそういった出会いをしたのも、各地を転戦をしながら功績を遺していったことが大きいでしょうね。
現代でもいくら人柄が良くても、実績や確かな人脈がなければ、よい人とのめぐり会いは難しいもの。
そうした意味でも劉備の活発的な活動が、良い人脈を引き寄せていったといえるでしょう。
さて、そうした劉備の人生は「中編」からさらに激変!
「中編」では非常に長い間日の目を見ない日々が続くことになります。
ぜひそちらもご覧いただけたら幸いです。
それではまた!!!
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