今回は三国志の主人公と言われる
曹操についてのお話「後編」です。
「前編」では曹操が生まれ、朝廷の役人としてどのように過ごしていったのかを描き、
「中編」では曹操が群雄割拠の一人として、官渡の戦いまでの間地盤を固める動きを描きました。
「後編」では官渡の戦いの後の北方の支配、そして赤壁の戦いに映ります。そしてその後晩年をどう過ごしたのか、
こちらを詳しく、そして分かりやすく解説していきますので、どうぞ最後までご覧ください。
曹操の生涯その8(46~55歳):曹操軍中華最大勢力
「官渡の戦い(かんとのたたかい)」で大勝利を得た曹操。
しかし依然として「袁紹(えんしょう)」の勢力は巨大なままでした。
両者なかなか決着が就かない状態が続く中、事態が急変します。
袁家の分裂
散々争ってきた袁紹でしたが、
曹操47歳の時、袁紹が病死します。
そのことがきっかけで、最大勢力を誇った袁家は内輪もめを始めるのです。
※袁紹は生前に後継者をしっかり決めていないことで、
長男の「袁譚(えんたん)」派と
末っ子の「袁尚(えんしょう)」派
で分裂することになります。
実の兄弟で争うことになるのですが、実の母、
「劉夫人(りゅうふじん:曹操の妻とは別人)」は末っ子の袁尚を後継者にしたかったそうです。
袁家勢力が内戦状態でゴタゴタになっているため、
曹操はそこからしばらく内政と自分の勢力の回復を行うようになり
静観することになります。
袁家攻略
袁家分裂から2年後。
49歳のころの曹操はついに袁家を攻めに行きます。
まず標的にしたのが、袁尚が本拠地としていた「鄴(ぎょう)」。
ここには袁家のその他子供たちや妻子も多くおり、袁紹の妻劉夫人も滞在しています。
鄴攻め滅ぼし、曹操はこの場所を本拠地に定めて北方領域全域の支配を開始していくのです。
※鄴を攻めた当時の時代は、その場所にいる女性や財産の略奪は認められていました。
この戦いで一番乗りで城に入ったのが、曹操の息子
「曹丕(そうひ)」です。
その曹丕は袁紹の次男「袁熈(えんき)」の嫁である
「甄夫人(しんふじん)」を発見。
甄夫人の美貌に心を奪われ、嫁にしたのだとか。
(いわゆる略奪愛)
その後曹丕との間に
「曹叡(そうえい、曹丕の後を次いで皇帝に即位する)」を生むことになります。
ちなみに劉夫人もこの時に捕虜になったのですが、曹操は手厚く迎え入れたそうです。
絹や米を送り、袁紹が集めた宝物なども劉夫人に返却して、安らかに暮らすことができたのだとか。
曹操さんのふところの深さがよくわかります。
翌年、曹操がついに50歳になったころ。
袁家のもう一つの勢力である袁譚を滅ぼします。
さらに「黒山賊(こくざんぞく)」として勢力を誇っていた
「張燕(ちょうえん)」も降伏し、北方での勢力が拡大していくのでした。
さらに2年かけて袁家と戦い、ついには北方の外れにある「遼東(りょうとう)」
という地域を支配していた
「公孫康(こうそんこう)」が袁尚のことを裏切り、首を手土産に曹操に降りました。
こうして、曹操52歳のころに北方全域も支配し、
最大の領土と圧倒的な軍事力をかかえる勢力へと成長していったのです。
※この時、残る勢力は
中華南中央一帯を支配する「劉表(りゅうひょう)」
中華東南の海や長江流域支配する「孫権(そんけん)」
中華西南の山脈地帯を支配する「劉璋(りゅうしょう)」
中華北西地域で精強な騎馬隊を有する「馬騰(ばとう)」
中華北西地域と西南地域の間にある小さな地域を支配する「張魯(ちょうろ)」
などでした。
しかしその後、曹操を裏切り行く当てもなかった
「劉備(りゅうび)」が活躍し、一つの勢力として膨れ上がり、
後に『三国』といわれるような、中華が3つの勢力に分かれることになるのです。
南下と赤壁の戦い
北方を支配した曹操は翌年
53歳になるころには曹操は「丞相(じょうしょう:今で言う総理大臣のような役割)」という位にまで昇進。
中華全土を平定するために15万の軍団を率いて、
中華の南中央一帯を支配する劉表に向けて、南下を開始します。
しかしこの最中、その劉表が病死。
跡を継いだのは「劉琮(りゅうそう)」でしたが、すぐに降伏。
これに対して兄に当たる「劉琦(りゅうき)」は猛反発!
客将として招いていた劉備一団とともに東の地域にある「夏口(かこう)」に非難。
このときに有名な「長阪の戦い(ちょうはんのたたかい)」という、劉備逃亡劇が繰り広げられます。
避難した地で東南地域を支配している、孫権と手を組むことになります。
※劉琮についてはよく「暗君(あんくん:おろかな君主)」として名前が上がります。
当時中華中央部の兵士は長江流域に位置していたため、水軍も数多くいました。
一方曹操の場合は、数は多いものの水軍についてはまだまだ実力不足な面もあったため、まだ戦うだけの力は十分あったのに投降したために、曹操に軽視される描写が後世の漫画などで描かれます。
しかし事実は逆で、徹底抗戦の構えでした。
降伏した理由として、臣下の面々の大半が降伏派に偏ったためと言われており、
半ば強引に降伏させられたのが真実なのだとか。
その証拠として、投降後の劉琮は
後諌議大夫・参同軍事という位に昇進しています。
才能ある人物を好んだ曹操が、ただ投降した人物を昇進させるとは思えないため、有能な人物であった可能性が高いと思われます。
曹操が順調に中華の南中央の支配が進み、東南側にもその支配を進めようと考えました。
しかし、南東地域を支配する孫権側は徹底抗戦の構え。
劉備も孫権側に味方しており、長江の川を挟んで
曹操軍と孫権、劉備連合軍が戦うことになったのです。
いわゆる「赤壁の戦い(せきへきたたかい)」の幕開けとなります!
両者の戦力は
曹操軍93万
孫権劉備連合軍4万~5万
孫権、劉備からすれば絶望的な数の戦いでしたが、
結果、曹操軍が大敗します。
完敗した曹操は命からがら逃げ延び、
中華南中央部分の大半の支配地域を奪われることになったのでした。
※この戦いの翌年から曹操は何度も孫権と戦うことになります。
実質西暦209年から217年の8年間もです。
(曹操が54歳から62歳にいたるまで)
しかも4回にわたって総力戦となって挑みますが、すべて孫権軍に撃退。
結局8年間かけても大きな戦果はありませんでした。
孫権軍の強さがよく分かりますね。
曹操の生涯その9(56~61歳)衰えを知らない曹操
赤壁の戦いの後、すぐに体制を整えた曹操は、
孫権へ軍を送り込むようになります。
その間、曹操は別の方面にも着手していこうと考えました。
それが張魯の勢力です。
すでにこの時、馬騰の勢力は説得の末に曹操の配下となっていました。
そのため馬騰やその妻や子供たちも一緒に鄴へ移り住んでいます。
そうした中、事件が起こってしまうのです。
「馬超」の反乱
曹操が56歳になったころ、張魯攻略を考えていた最中に馬騰の息子である
「馬超(ばちょう)」が反乱軍を起こして攻めてきます。
いわゆる「潼関の戦い(どうかんのたたかい)」です。
10万にも及ぶ馬超軍に曹操の軍は苦戦。
戦局は半年がたっても決着がつきません。
次第に膠着状態になっていき、講話の会談も作っても和平することができません。
何度か死闘をその後も繰り広げることになりますが、
翌年の曹操が57歳になったころ、
馬超の反乱の責任として馬騰や馬超の弟も含め、その一族200人をすべて処刑します。
その後馬超は仇討ちのため曹操に攻め込んできますが、馬超軍内部でも反乱が発生。
馬超は逃亡して張魯のところへ行くことになるのです。
馬超軍内で反乱した勢力はそのまま曹操の下に降り、
曹操の北西地域の支配が盤石なものになるのでした。
※馬超が反乱をおこした理由は、曹操が張魯を攻めようとする準備していると聞いた時、馬超は自分たちに攻めてくるのではないかと「勘違い」したことから、先手を打って反乱を起こしたと言われています。
馬超軍で反乱が起きた時には妻である
「楊氏(ようし)」や子供たちは処刑されています。
どうやら反乱した者たちの中に、馬超に恨みを持った人物がいたようです。
また、張魯のところに行った後には劉備の誘いにのって降伏。
張魯の元に側室の「董氏(とうし)」やその子供、そして部下たちを張魯のところに置き去りにしてしまったのだとか。
(当然張魯に子供たちは処刑されています。)
その後の馬超は劉備の配下として人生を終えるのですが…
「魏王」へ
58歳になった曹操は、「魏公(ぎこう)」という爵位を与えられます。
その後張魯へと侵攻を開始します。
しかしその間にも孫権への攻撃を辞めていなかったため、
実質複数の戦いが同時進行していた次期でもありました。
しばらくは結果が出ない戦いが続きましたが、
曹操が60歳になった時、ついに張魯が降伏してその一帯を手に入れます。
こうして一段落がついた曹操。
その翌年の61歳になるころに
「魏王(ぎおう)」の爵位が与えられました。
そんな中、曹操の臣下から
「帝位に登ってはどうでしょうか?」
と言われます。
つまりは曹操が皇帝になった方がいいと言われるのです。
しかし曹操はこれを拒否。
曹操は結局最後まで「帝位(ていい):帝のになって中華のトップに君臨すること」には就くことはありませんでした。
※曹操が帝位に就かない理由はいろいろありますが、帝位に就けないわけではありませんでした。
古代の中国の歴史を見ても、自分が帝になろうと何度も帝位を奪われています。
しかし曹操は就くことはなかったのです。
その理由についていくつか説がありますが、一番の理由は
「リスクが大きい」からではないでしょうか。
曹操はすでに60歳をすぎていますが、まだ政権は安定していない状況です。
たとえいくら功績があって人気者になっても、裏切る人は裏切ります。
また、中華全体を見ても曹操に反対している勢力は未だにおり、
戦いは終わっていません。
自分が帝位に登ったことで各地で反乱が起きても不思議ではありません。
そうしたことを考慮して、帝位に就くのは「リスクが大きい」と考えたのではないでしょうか。
合理的な判断ができる曹操なら、納得です。
曹操の生涯その10(61~65歳)多くの功績を遺した曹操
曹操が張魯を降したその頃、劉備が南西地域を支配していた劉璋の勢力を降し、
西南の地域を支配することになりました。
(後に蜀と言われる。)
曹操の臣下の
「司馬懿(しばい)」などから
「まだ劉備の支配している地域はまだ日が浅く、今攻めてしまえば劉備は体制を整えることができずに勝つことができるでしょう。」
と提案されます。
しかし、曹操は拒否。
曹操は劉備のことをよく知っているからこそ、慎重になっていたのでしょう。
しばらくは内政に力を入れるようになります。
対劉備戦
曹操が63歳になった頃。
ついに劉備が攻めてきました。
場所は張魯が支配していた地域、「漢中(かんちゅう)」
その場所を防衛する戦いです。
劉備軍との戦いは、「長阪の坂(ちょうはんのさか)」にて戦って以来、実質10年ぶり!
赤壁の戦いを入れても同じくらいの期間になります。
また、劉備軍が単独で攻め込む戦いは今回が初の戦いとなります!!
(晩年にもいろいろ起こりすぎ!)
曹操は劉備を討伐するために「長安(ちょうあん)」に入り軍に指示を出します。
しかし曹操軍は大苦戦!
ついには漢中を奪われてしまい、曹操軍は撤退を余儀なくされます。
この戦いで、古くから曹操に付き従いった武将
「夏侯淵(かこうえん)」が戦死するなど、痛恨のうちに終わってしまうのです。
また同時期、別の場所から
「関羽(かんう)」の軍勢も攻めてきます。
曹操軍は守りに徹しますが、関羽は水攻めを使うなどで次第に劣勢となっていきました。
さらに鄴では
「魏諷(ぎふう)」という人物が
反乱を起こそうとしていると聞き、曹操は困惑します。
※結局魏諷の反乱は、密告によって曹丕が魏諷とその共謀者を捕らえ、
処刑する形で幕をおろします。
つまりは未遂事件で終わったのです。
ただこの反乱はあまり大きな事件ではないように思われていますが、
これが、かなり大きな事件だったのです。
というのも、この反乱を起こした理由というのが
「曹操の魏王の爵位反対運動」でした。
当時の政権は、漢王朝の復興を望む声から、だんだんと魏王派(つまりは曹操)に流れる動きがあり、曹操が帝位に登るった方がいいという声もありました。
そうしたことから元々漢王朝の復興を望む声の者らがこの反乱に参加したと言われています。
その証拠に参加していた人たちは、曹操臣下の中でも有名な名士ばかり。
処刑された人たちも数千人にも及ぶほどでした。
処刑は曹丕の独断で行われたため、その中には曹操が有能な人物と考えた人もいたのだとか。
こうしたこと背景があったため、曹操が困惑したのでした。
奸雄の最後
関羽の攻勢に対し、曹操臣下の司馬懿の提案で孫権との和睦、結盟を行います。
孫権と劉備は同盟関係にありましたが、この頃は関係があまりよくありませんでした。
とりわけ関羽については孫権との間でいざこざがあったため、さらに関係は冷え切っていたのです。
そうした背景もあって、曹操と孫権は和睦し、一緒に関羽を攻めることになったのです。
孫権から後方を攻められる形となった関羽は、結局孫権配下の
「呂蒙(りょもう)」に捕獲され、処刑。
その首は、曹操の下に送られることになります。
曹操は元々関羽のことを尊敬し、いつか配下にしたいと考えていた人材。
そのため、その首を手厚く葬ることにしました。
しかしその後、曹操は病に倒れます。
長い間戦い、様々な地域に出向いては指揮を取ってきた曹操でしたが、
ついに倒れてしまったのです。。
その後しばらく療養しますが、
西暦220年。
曹操65歳で死去します。
その後息子の曹丕が跡を継ぎ、皇帝に即位。
「魏(ぎ)」が建国されるのでした。
※曹操は自分の葬儀に対して
「まだ戦時中だから、喪に服す時間は短くていい。それとお墓には金銀はいれなくていい」
と言っています。
近年発見された曹操のお墓には、たしかにその遺言通りの質素なお墓だったそうです。
また、同じ墓に女性の遺骨もあり、骨年齢的にも正室であった
「卞夫人(べんふじん)」であると言われています。
筆者が思う曹操という人物について
さて、曹操の人生を
「前編」
「中編」
「後編」
の3つの段階でお話しましたが、戦いの細かな部分や関連エピソードなどを交えると、
まだまだ莫大な数が存在します。
そこでここからは、筆者が曹操について
「これだけは皆さんに伝えたい!」
という内容を3つお伝えしたいと思います。
・1つ目:曹操を一番苦しめた好敵手(ライバル)は誰か!?
さて、曹操は65年の人生の中で負け戦ももちろんあり、数多くの部下を失っています。
そこで、一番曹操を苦しめた人物もいたことでしょう。
それは誰なのか?
その人物こそ
「呂布(りょふ)」と筆者は思います。
その理由として、曹操は何度も死にそうな目にあっています。
「董卓(とうたく)」に追われていた時も
「鄒氏(すうし)」と不倫して夜襲に追われた時も
「馬超(ばちょう)」の突撃によって後少しで殺されそうになった時も
常に死の危険がありました。
そのたびに曹操は復活して、何度も何度も戦って勝利しています。
しかし呂布は違います。
呂布は「陳宮(ちんきゅう)」らと手を結んで曹操の城を次々奪いました。
もちろんその後反撃して呂布を処刑していますが、
「曹操の心を折った人物」は、
後にも先にも呂布ただ一人です。
しかもこの時、父親は殺され、親友は裏切り、臣下は寝返る者ばかり…
心が折れて当然です。
そんな心を残った臣下たちが支えてくれました。
ただそういった臣下がいなければ曹操は呂布に降されていたかもしれません。
・2つ目:曹操は天才ではなく〇〇な人だった?
曹操について、よく
「政治や学問、戦闘などなんでもこなす天才!」
と言われることがありますが、本当に天才なのでしょうか?
正直筆者が調べているうちに感じたのが…
「天才ではなく秀才」
ではないでしょうか。
というのも、曹操は「孫子兵法(そんしへいほう)」などの兵法書に中略を入れながら、
自分で軍略書を作るほど、マメにコツコツ研究していました。
そのため、軍の扱い方は随一となったのです。
その他の部分についても、ここまでマメにしている人がそれらを研究しないはずがありません。
政治についても詳しい人に指導を仰ぎ、詩についても研究を惜しまなかったでしょう。
そういった時間を作っていったのも、本人が
「他人からどう見られたら頼られるか。」
や
「どうやったらうまく自分の領地がうまく運営できるか。」
を常日頃から考えていたからでしょう。
ただ一つ天才な部分があるとすれば、
「努力する天才」
であったのかもしれませんね。
・3つ目:曹操の大好物
曹操は伝記によって様々な人物像で描かれていますが、
かなりグルメだったのではないかと入れています。
というのも、行った先々でその土地の名物を口にしているということもわかっており、
「祚(そ:今で言う乳製品で作ったクッキー)」や鶏ガラスープを好んで食べたとも言われています。
その影響なのか、息子の曹丕については祚だけでなく、
サトウキビなんかの甘いものや梨などのフルーツも大好物だったのだとか。
※ちなみに中国では、北と南で気候が大きく違うので主食も大きく違うのだとか。
北は比較的寒冷気候のため麦の栽培が盛んで、麺やパンの文化になっており、
南は比較的温暖な気候のため米の栽培が盛んで、米文化が主流になっているのだとか。
中国大陸は広いですから、そういった主食の違いから、各地の食文化もだいぶ違ったのでしょうね。
アニメやゲーム作品での曹操
やっぱり曹操といえば、コーエーテクモさんの「三國志シリーズ」「無双シリーズ」でしょう。
ちなみに無双シリーズでの人気投票が行われた結果、曹操さんの順位はなんと!!
15位…
1位は「郭嘉(かくか)」でした…
自分の軍師に負けるなんて…
ちなみに三國志シリーズでは人気キャラランキングの代わりに、
総合能力ランキングがありましたので、その順位のご紹介をしておきます。
題材は最新シリーズの「三國志14」
曹操さんのランキングはなんと!!
1位!!!
その能力を見ていくと、ご覧の通り、軒並み能力値が90超えになっています。
ズバ抜けてどこかの能力が強いわけではなく、全体的に強いことがわかります!
ちなみに親愛武将(曹操が好きな武将)に関羽や郭嘉がいるのですが、個人的には「陳宮(ちんきゅう)」も入れてほしかったです。
(完全筆者の好みです。)
アニメや漫画での出番も多く、
曹操が主人公の「蒼天航路(そうてんこうろ)」
ぜひ見てほしい!
本当に曹操がかっこよく描かれています。
その他にも関羽などが無事女性になっちゃった「一騎当千(いっきとうせん)」の曹操。
(こちらは男性のままです。)
そして無事女性化した「恋姫†夢想(こいひめむそう)」
と、日本ではやりたい放題なのも面白い。
ぜひ興味がある方は見てください。
筆者の感想
曹操について長く述べてまいりましたが、調べているうちにだんだんと分かってきたことも多く、
「この人とも絡んでいたのか!?」
と言ったこともわかって調べるのも面白い人物でした。
というのも、三国志を一から語るには
やはり最大勢力の曹操について知っておかないと、
全体のストーリーなんて分かるわけがありません。
そういった意味でも、やっぱり三国志の中心人物として活躍した曹操はすごい人だったんだと思います。
ぜひ
をまだ読んでいない方はそちらもごらんください!!
それでは今回はここまで!!
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