呂布と陳宮の関係は最悪だった?曹操を裏切ってまで通したかった彼の理想とは?

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今回は曹操の元配下で「呂布(りょふ)」と共に散っていった男
「陳宮(ちんきゅう)」
について解説していきます。

陳宮と言えば最初は曹操に付き従い、呂布に寝返り曹操に反旗を翻したことで有名です。
でも彼は決して呂布と仲が良かったわけではなく、むしろ仲は最悪だったんだとか。
それなのになぜ曹操から呂布に寝返ったのか?
呂布と仲が悪くなったきっかけは?
陳宮の生涯を追いながら、彼の裏切りの理由や理想としていたものについて徹底解説していきましょう!

陳宮簡単プロフィール

出身地:兗州東郡東武陽県
生年月日:不明
没年:199年2月7日
字:公台(こうだい)

曹操に仕える

陳宮が曹操に仕えるまでの間、どこで、何をしていたのかは詳しく記録がないのでわかりませんが、彼は地元で有名な人物だったことが記録として残されています。
陳宮の家柄は曹家と懇意にしていた間柄であり、曹家と言えば宦官としての名声を得ていた家柄。
そのため、地元でもそこそこ有力な家柄だったのではないかと思われます。

さらに陳宮自身も若い頃から英雄と言われる人や有名な学者と積極的に交流を持ち、地元でも顔役として名前が知られていた人物だったのだとか。
多くの知識人と交流を持てるということは、それだけ彼自身も同様の知謀があったということ。
多くの人との交流を持てたのは、彼自身の性格が
「勇敢で信念を曲げない」という気質があったからこそ。
彼が理想とする世の中や生き方を実現するため、広く見識を持とうとした可能性があります。

そんな陳宮が曹操に仕えることになるのですが、陳宮がどのように曹操に仕えることになったのかはわかりません。
ですが家柄の関係上、曹操の旗揚げの際に一緒に付き従った可能性が大きいと思われます。

※演義では董卓が権力を握り、曹操が暗殺に失敗して逃走する際に、陳宮が曹操を捕縛。
その後陳宮は曹操と直接対話したところ、曹操の人柄や信念に惹かれて配下に加わり、逃走の手助けをするというエピソードとなっております。

これらはフィクションとなっていますが、もしかしたら本当にあったことかもしれません。
ですが彼と曹操の家同士の付き合いもあり、幼なじみとはいかなくても昔からの面識はあったはず。
現に陳宮は親に
「曹操様に何かあったら支えてやってほしい。」
と言われていたとあります。
もしかしたら、逃走の手助けをしていたかもしれませんね。

その後黄巾党の残党が兗州で猛威をふるいます。
これに加えて兗州を治めていた「劉岱(りゅうたい)」が黄巾党を倒すために応戦するも戦死。
兗州一体が黄巾党残党軍に荒らされてしまいます。

そこで陳宮は曹操に対して、「兗州を治めてはどうか?」と誘います。
曹操がそれに賛同するや否や、兗州の各地の有力者にすぐに訪問。
曹操が兗州を治めることに賛同するよう説得にまわり、陳宮は根回しをしてまわったのです。
その結果、済北郡の有力者「鮑信(ほうしん)」を筆頭とした者たちが曹操を支持。
曹操を兗州牧にすることに成功したのでした。

その後、曹操は黄巾賊の残党を自軍に吸収。
「青州兵(せいしゅうへい)」として大幅に兵力を強化することになります。

徐州大虐殺

曹操が兗州を治めた翌年、徐州に勢力を築いていた「陶謙(とうけん)」との対立が強くなります。
というのも陶謙が曹操の父親や弟など、一族を殺害したために、曹操は対陶謙へと兵力を集中したからでした。

報復として曹操は50万の軍を派遣。
曹操の徐州侵攻はただ領土を奪うだけでなく、陶謙領にいる男女、子供、年老いた者ら数十万人を虐殺。
このことを知った陳宮は
「曹操は罪もない女子供、老人まで殺す非道な男なのか!」
と感じ、曹操から心が離れていきました。

※実際のところ、なぜ曹操軍から心変わりしたのかについては記録が乏しいため、真相は定かではありません。
しかしこのことによって陳宮が確実に心変わりをしたのは確かではないかと思います。

演義では董卓から逃げる際に陳宮と共に逃げ、勘違いにより惨殺した「呂伯奢一家惨殺事件」があります。
呂伯奢の子供だけを惨殺したという記述もありますが、この事件自体は正史にも記述がある事件です。
この事件で陳宮は
「勘違いで殺したとは言え、恩がある者たちを惨殺した。それに対して曹操は悪びれる様子もない。」
と、曹操への疑念が芽生えた。
と描かれています。

正史ではどうだったのか定かではありませんが、陶謙での大虐殺によって陳宮が心離れをした可能性が一番高く、この後実際に曹操と袂を分かつことになります。

曹操が徐州で大虐殺を行ったことで陶謙は援軍を要請。
劉備たちが駆けつけ、形勢は一時的に膠着状態となります。

その翌年、再び曹操は大軍勢を引き連れて徐州へと侵攻。
しかし大部分の軍勢を引き連れて侵攻してしまったため、このタイミングで陳宮や一部臣下たちが離反することになるのです。

陳宮の反逆

大部分の兵力が兗州からいなくなった隙きをついて、曹操の友人である
「張邈(ちょうばく)」
弟の「張超(ちょうちょう)」
臣下の「王楷(おうかい)」・「許汜(きょし)」
たちとともに陳宮たちと反乱。
董卓を暗殺した英雄、「呂布(りょふ)」を迎え入れ、盟主として旗をあげます。

これにより陳宮らは兗州のほとんどを制圧。
曹操はわずか3つの城を残すのみとなったのです。
陳宮は軍を率いて「東阿(とうあ)」を攻撃しますが、曹操配下の「程昱(ていいく)」たちの活躍により侵攻を防がれてしまいます。

その後、曹操軍本体が帰還。
呂布軍は迎撃にあたりますが敗北。
陳宮も呂布と共に曹操軍を攻撃しますが、伏兵にあって敗走。
各地で敗走を重ねた呂布軍は兗州から逃走。
劉備のところへと逃げることになります。

陳宮の最期

徐州の領地を得た呂布。

しかし配下の「赫萠(かくぼう)」を始めとした者たちが反乱を起こします。
この反乱はすぐに鎮められるも、この反乱が「袁術(えんじゅつ)」と陳宮が裏でつながっていることが発覚してしまいます。
(陳宮と袁術が本当につながっているのかは実際のところは不明。)
陳宮はこのことで責任をとらされそうになるのですが、陳宮が大将の位にあるために責任を不問として処理したのです。

その後袁術と和睦した呂布は劉備軍に再び侵攻。
これに対して曹操軍は劉備軍に参加。

曹操軍が大勢攻めてくるのに対して陳宮は
「まだ曹操軍は準備できていません。今すぐ出撃してこれを討ちましょう!
と進言するも、呂布はこれを拒否。
呂布はあえて「下邳(かひ)」の地で防衛の体制をとることを選びます。

しかし曹操軍が下邳につくころには体制が十分整えられ、呂布も城から出て迎撃するも敗北。
結局は籠城戦になっていきます。
曹操軍からも降伏を促され呂布は応じようとしますが、陳宮はコレを拒否。
「今素周防郡に降伏するのは石に向かって卵を投げるようなものですぞ!」
といってなだめます。

この後も陳宮は呂布に何度も打開策を出していきますが、全く聞き入れられません。
さらに曹操軍の水攻めによって兵の指揮も低下。
結果陳宮や呂布は部下の兵たちによって捕らえられ、呂布軍は降伏することになります。

捕らえられた陳宮は曹操と対面。
曹操は
「陳宮よ、なぜこのようなことになったのだ。」
と問われます。
これに陳宮
「この男が私の言う事を聞かなかったから負けたのだ!」
と、呂布を睨み答えます。
陳宮に再び仕えないかと曹操は伝えますが、陳宮は拒否。
これに曹操は
「年老いたお前の母親や子供はどうするというのだ?」
と尋ねると
「天下を治める者は人の親を殺したり、妻子を途絶えさせたりしないもの。母の生死は貴方の手中にあり、私にはない。」
と言って、自ら処刑場に足を向けるのでした。

曹操は泣きながら陳宮を止めますが、陳宮は一切振り向かなかったと言われます。
結局は呂布も処刑。
陳宮の母親や子供たちは曹操に引き取られ、陳宮の娘が嫁いでいくまで手厚く面倒を見たのでした。

陳宮と呂布の関係

曹操から離反した陳宮は、呂布に対してどのような想いがあったのでしょうか。
少なくとも、呂布は主君を2度裏切っていますし、その事実を陳宮は知っていたはずです。

それなのになぜ呂布へと願えることとなり、最期まで呂布に付き従ったのでしょうか。
【なぜ】の部分について筆者の考察を交えながら、陳宮と呂布との関係性について述べていきましょう。

理由その1:英雄としての呂布を尊敬していた

呂布は主君を裏切っているとは言え、暴政を働いていた董卓に天誅をくだした人物。
演義においては曹操が董卓を暗殺失敗した際、彼を尊敬するに値する人物として付き従っています。

このように陳宮の性格上、民のことを考えずに自分のことしか考えない者を許せなかった可能性があります。

呂布は董卓を暗殺した言わば英雄。
そんな英雄を彼は慕っていた可能性があるのです。
しかし、彼の性格には「コレ」という信念よりも私利私欲が強い部分もあるため、彼の全てに惹かれて付き従った可能性は低いかと思いますね。

理由その2:自分が下した判断に責任を取るため

曹操のやり方に対して陳宮は納得をしていません。
しかし、曹操を裏切ってまで呂布の側に着いたことは、彼にとって苦肉の策だったのでしょう。

民を思えばこそ裏切った判断も、呂布も曹操同様私利私欲の輩と考えていても仕方ありません。
「今の世の中は曹操や呂布のような男が天下をとっていく世の中なのか…。」
と諦めがあったのでしょう。

最期まで陳宮は自分の行き方を変えることを許さず、決断したことを守り通したかったのかもしれません。

結局は…

理由を2つ述べましたが、結局のところ
【自分の生き方を変えることができなかった】
というのが全てでしょう。

彼は幼いころから正義感や知識人との交友も多い人物です。
兗州支配を曹操に勧めた際にも知識人とのパイプを大事にしていました。

そうした方々も一時反乱に加わっていたことも考えると、陳宮は有力者たちへの義理も果たしたかったのもあったでしょう。
結果的には曹操を裏切る形になりましたが、彼のまっすぐな生き方は好感が持てます。

曹操もそんな彼のことを慕っていたため、最期の処刑時に涙したのではないでしょうか。

陳宮の力

曹操陣営を初期から支えたメンバーには
「荀彧(じゅんいく)」
「郭嘉(かくか)」
「荀攸(じゅんゆう)」

と、かなりの著名人ばかり。

陳宮はその中でも物語の構成上どうしても影が薄くなってしまっています。
けれども本当にそうでしょうか?

ゲーム上の陳宮は決して影が薄くありません。

こちらがコーエーのゲーム「三國志14」のステータスがこちら。

ちなみに曹操の能力値はこちらです。

総合能力に関しては全てにおいて陳宮の上をいく曹操。
しかし陳宮のステータスが下かと言われると、決してそんなことはないと思います。

陳宮のステータスだけで見ると三國志14のキャラでも中堅クラスの能力値。
史実でも曹操軍の初期を支えていたメンバーと考えれば妥当な能力だと思います。

特に人と人とをつなぐ橋渡しの役割は、荀彧や郭嘉に匹敵するレベルではないでしょうか。
何しろそのおかげで兗州の統治が容易になっただけでなく、基盤を確固たるものにできたのですから。

筆者も彼のことを調べていくと、すごく不器用で人間臭くて、魅力的な人物だなあと、
一気にファンになった人物でした!

今回はここまで!

それではまた!!

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