劉備の親友「牽招(けんしょう)」ってどんな人?「桃園の誓い」のモデルになったその人物像とは!?

劉備の親友「牽招(けんしょう)」ってどんな人?「桃園の誓い」のモデルになったその人物像とは!?魏の武将

今回は「三国志」「魏」の勢力でもマイナーな武将
「牽招(けんしょう)」
についてご紹介していきます。

「牽招?誰それ?」
と思う方のためにざっくりとした説明をすると
「劉備の親友」
その一言につきます。

「劉備の親友って、関羽や張飛じゃないの?」
そう思うかもしれませんが、実際関羽や張飛は「義兄弟」であって、「親友」ではありません。
むしろ「史記三国志」においては、信頼できる昔からの部下、という立ち位置にあったのが本当のところでしょう。

それに、もしかしたらあの「桃園の誓い」も、彼と劉備の関係が元ネタだったのかもしれないのです。
今回はそんな牽招について、詳しく解説していきましょう。

牽招簡単プロフィール

出身:冀州安平郡観津県
生年月日:不明
没年:不明(享年不明、50代で亡くなった可能性がある。)

師匠思いの漢、牽招

牽招は10代の頃、「楽隠(がくいん)」という人物を師匠とし、
彼の元でいろいろと学んでいました。
この楽隠という人物。
資料が少なくどんな人物かまではわかりませんが、後に大将軍である「何進(かしん)」の従兄弟、「何苗(かびょう)」と共に都へ赴くなど、有力者とのつながりがあるほど。
牽招の他にも門下生がいることから、地域でもかなり有力な人物であることがわかります。

そんな中、都「洛陽(らくよう)」大将軍が暗殺され、名門出身の「袁紹(えんしょう)」が宦官たちを皆殺しにするなど、大きな動乱が起こります。

その騒乱に、何苗と楽隠も巻き込まれ、殺されてしまうのです。
楽隠を棺に埋葬し、牽招や門下生らは故郷へと運んで行きますが、そこで賊に襲撃されてしまいます。
門下生は慌てて逃げ出して行くのですが、牽招は必死に棺にしがみつき、泣きながら見逃すように頼みこみます。
そんな姿に心を打たれた賊は牽招の言い分を聞いて牽招たちを見逃すことにしたのです。

こうして牽招は大事な師匠の亡骸を守っただけでなく、その行いによって名前を知られるようになっていきます。

劉備との出会い

牽招はその後、儒学者の「廬植(ろしょく)」の元で学問を学んでいた「劉備(りゅうび)」と出会います。
劉備は同門の「公孫瓚(こうそんさん)」などの有力な人物たち積極的に交友を持とうとしており、牽招もその中の一人でしたが、出会って話だすと意気投合!
特に仲良くなっていきます。

劉備からしたら、牽招は師匠の楽隠を賊から守るような任侠気質な人物。
劉備も同じ気質だったため、意見が合ったのでしょう。
2人はその内「刎頸の交わり(ふんけいのまじわり)」と言われるほどの仲となります。

刎頸の交わりについて
「刎頸の交わり」とは、三国志の時代よりも400年も前に
「蘭相如(りんそうじょ)」「廉頗(れんぱ)」という2名の武将が、
「君のためなら頸(くび)を刎(は)ねられても後悔はしない。」
というほどお互い認め合い、仲が良い関係になるという昔の出来事から来ている。

劉備と牽招も、そんな仲だったということです。

しかしその内に劉備は黄巾の乱、公孫瓚の元で働くなど、各地を転戦。
牽招も袁紹に仕えて北部の守りに就くなどで、その後も接点を持つことはありませんでした。

袁紹に仕えている時代の働き

袁紹に仕えた後、北部の異民族「烏桓(うがん)」に対抗する役職に就くことになります。

袁紹配下時代は、禁令を犯した者に対して容赦なく斬って処罰し、その後報告をするという対応をしていました。
牽招は違反者に厳しく対応したため、袁紹も牽招について高く評価したのでした。

袁紹死後は息子の「袁尚(えんしょう)」に仕えることになります。
袁紹は南に位置する中原の「曹操(そうそう)」と対峙しており、息子の袁尚も父親と同様、対決の姿勢を見せていました。
しかし拠点としていた「鄴(ぎょう)」に曹操軍が攻めてきます。

そこで牽招は「上党(じょうとう)」という地域に行き、兵糧の調達をする任務を任されます。
しかし牽招が戻る前に鄴が陥落。
袁尚は「中山(ちゅうざん)」に逃走。
残された牽招は、袁紹の甥である「高幹(こうかん)」を頼って逃げることになります。

ところが高幹は牽招を殺害しようとしていたため、彼の元から逃走。
高幹の追っ手が迫り、袁尚の元へ行く道がことごとく塞がれていきます。

散々悩んだ牽招は、進路を反転。
曹操の元へ降ることになったのです。

曹操につかえている時代の働き

曹操に仕えてすぐに冀州従事という役職に就きます。
しかしここで袁尚の兄、「袁譚(えんたん)」が烏桓族に救援を出したことを知ります。
曹操はこのことを聞き、異民族対策をしていた牽招を抜擢。

牽招に「柳城(りゅうじょう)」にいる烏桓族の有力者、「蘇僕延(そぼくえん)」の元へ行くよう指示され、すぐに牽招は向かいます。

柳城に到着した牽招は、「遼東(りょうとう)」地域に勢力を広げていた「公孫康(こうそんこう)」の家臣、「韓忠(かんちゅう)」と鉢合わせしてしまいます。
公孫康は烏桓族と親睦を深め、賄賂を送ろうとしていたのです。

お互いに思惑がある牽招と韓忠。
蘇僕延も交えて協議することになります。
その結果、牽招は韓忠を見事論破し、蘇僕延に今曹操側に肩入れすることの利を説いたところ、これに蘇僕延も賛同。
警戒態勢にあった軍勢5000騎を解散させることに成功します。

その後曹操は「南皮(なんぴ)」にいる袁譚を討ち果たすことができ、牽招の働きは高く評価され、「軍謀緣(ぐんぼうえん)」という役職に出世します。
更に牽招は烏桓族討伐軍にも従軍。
「護烏丸校尉(ごうがんこうい)」という役職にも就くことになります。

そうした活躍があり、曹操は次に袁尚討伐と思ったところで、
公孫康から袁尚の首が届くことになります。
牽招は元々の主君である袁尚の首が届いたことで悲しみ、祭祀を設けて丁重に葬儀を行います。
こうして手厚く葬る姿勢に曹操は牽招を高く評価。
義の心に熱い人物として更に曹操は牽招を重宝していくことになり、その後「漢中(かんちゅう)」に勢力を置いていた「張魯(ちょうろ)」討伐にも従軍することになります。

討伐が完了した後は漢中の治安維持に努め、その後、鄴へと戻り賊軍討伐などで功績を上げていきます。

魏王朝成立後の働き

曹操死後、息子の「曹丕(そうひ)」が皇帝に即位。
「魏(ぎ)」が建国され牽招もその配下に就きます。
牽招は「昌平(しょうへい)」という場所に駐屯。
「解儁(かいしゅん)」とともに鮮卑族を監督することになります。

牽招は赴任先は国境沿いの辺境の地。
そこで辺境の民や異民族など、誰でも迎え入れる融和的な統治をしていきます。
当時治安が荒れていた辺境では、住んでいた人たちが別の土地に逃げることも多かったため、牽招はその人柄や友好的な統治方法で地域の流浪を抑えるだけでなく、人を広く招いて地域の活性化をはかったのです。

牽招は赴任中にも
鮮卑族の「素利(そり)」「弥加(ぴか)」らが率いる数十万人の部族世帯
同じく鮮卑族の「歩度根(ほどね)」「泄帰泥(せちぎない)」らの3万人の部族世帯を帰服させることに成功。
さらに行政にて農地開発や治安の安定に励み、襲撃してきた異民族「軻比能(かぴのう)」にも大勝。
牽招の統治は成功していき、地域の住民たちからも慕われていくことになります。

魏の2代目皇帝「曹叡(そうえい)」の時代には「関内候(かんないこう)」という爵位を得ることになり、さらに出世することになります。
また同時期に軻比能に包囲された「田豫(でんよ)」という武将を救出するため、自ら上奏文を奉りすぐ出発。
援軍は間に合い、軻比能の軍に大勝します。

ここで牽招は、何度も攻めてくる軻比能の行動を疑問に思います。

様々な人の意見を聞き、軻比能の行動を分析した結果、「蜀(しょく)」の「諸葛亮(しょかつりょう)」が裏で手を引いていると判断した牽招は、本国に対策するよう上奏。

当時諸葛亮は「祁山(きざん)」という場所におり、牽招が予想した通り軻比能とつながっていたのです。
しかし、上層部は蜀と鮮卑族の場所が距離的に離れていることから、牽招の報告を信じることはありませんでした。

すると軻比能がまた来襲。
これに諸葛亮も合わせて北上を開始し、牽招は他の武将と共に討伐に向かうことになります。

しかしその途中、牽招は病に倒れそのまま亡くなることになるのです。

筆者の感想・考察

牽招は辺境の土地で活躍した名将の一人で、同じ魏の武将で辺境の土地を治めた「田豫(でんよ)」と同じくらいの働きをした人物です。

牽招の名前は辺境では知れ渡っており、在任期間中は民からも慕われていたそうです。

牽招は幼い頃から有力者に弟子入りしていたこともあり、学問にも励んでいました。
そのため理論的な考えで政策や軍略を考える人物だったといえます。

その中でいくつかの話題が出てくると思います。

なぜ劉備に着いて行かなかったのか

まず最初に
なぜ劉備に着いて行き、一緒に大業を成さなかったのかです。
「刎頸の交わり」を交わすほど仲が良かったのに、疑問に思いますよね?
それなのになぜ??

それは
「出会った当初は劉備が一勢力として活動していなかったから」
です。

劉備が旗揚げしたのが、黄巾の乱の時からです。
しかし牽招はすでに袁紹配下となっていた可能性があります。
さらに黄巾の乱後には劉備は袁紹と対立していた公孫瓚の元で働いています。

そのため、この疑問については
「着いていくタイミングではなかった。」
からと言えるでしょう。

「桃園の誓い」のモデル?

桃園の誓いは三国志演義で出てきた
物語上盛り上げるためのエピソード。
そのため多くの人が、このエピソードはフィクションであることはよく知られているのではないでしょうか。
史実の三国志ではこの誓いのエピソードはないため、もしかしたらこの牽招との刎頸の交わりがモデルとなったのかもしれません。
その証拠なのか、牽招は三国志演義には出てきません。
登場されると物語上何かとややこしくなるからでしょうか?

どちらにしても物語を盛り上げるために、劉備と関係性が深かった牽招との関係をモデルにした可能性が高いと思われますね。

活躍の割に評価が低い

牽招は三国志を題材にしたゲームで登場することもありますが、あまり大きな活躍を見せることがありません。

三国志演義でも出番はありませんし、コーエーさんが出しているゲーム
「三國無双」においても、登場しておりません。

同じコーエーさんが出しているゲーム
「三國志」シリーズであれば、キャラクターとして登場しています。

最新作である「三國志14」での能力値はこちら

劉備の親友「牽招(けんしょう)」ってどんな人?「桃園の誓い」のモデルになったその人物像とは!?牽招能力値

うん、かなりのバランサーですね。

ちなみに親友劉備さんの能力値はこちら

魅力以外遜色ない、むしろちょっと弱いくらいですね。
異民族をことごとく倒すほどの実力があり、武将相手に論破できるだけ頭が回るのですから、
統率力、知力共に80はあってもいいんじゃないの?

とは思いますね。

使用感としては「何でもこなしまっせ!」
という感じではあっても、かなりの器用貧乏感があります。

また、護りに強い武将のため、出撃しても護りの陣形くらいしか選べないので、要所要所での運用を余儀なくされた感じで、癖のあるキャラクターって感じでした。

もうちょい異民族での功績を反映して、攻撃面を強化したキャラにしてほしい感じですかね。

牽招の魅力と筆者の思い

個人的に牽招は田豫と同様、魏のマイナー武将ではあってもしっかりと実績と実力の両方を兼ね備えたキャラであり、魅力的な人物です。

「もしも牽招が劉備陣営に加わることを選んだら…」

と考えると妄想が止まりません!

牽招のことですから、徐州の地で一勢力となった劉備を支え、常に最前線で戦っていた可能性があります。
更には呂布が徐州に逃れた際にも、迎え入れはするものの小沛の城を張飛が守るのではなく、牽招が守って、さらに守りきったかもしれません。

また、これに田豫もついてきていたら、更に違った結末を劉備はとっていたかもしれません。
もしかしたら、中原の東側で一大勢力として名を馳せた可能性も…

そんな妄想ができる人物として、牽招はとても魅力的なキャラではないでしょうか。

今回はここまで!!

それではまた!

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