今回も三国志の主人公
「劉備(りゅうび)」の生涯についての解説になります。
「後編」はいよいよ、劉備の晩年までをお話する回となります。
「前編」では劉備がこの世に生まれ、世の中にはじめて名前が上がるまでを…
「中編」流浪や領土獲得を繰り返し、それでも着実に実績や仲間を得ていくまでを…
そして今回はいよいよ、自身の確固たる領土を獲得していき、最後の時を迎えるところまでを解説いたします。
最後までどうか最後までごらんください。
「前編」、「中編」がまだの方は、そちらもぜひごらんください。
劉備の生涯その7(50~53歳):確固たる地盤を築く50代前半
劉備が50歳の頃。
中華の西南地域、「益州(えきしゅう)」の地域を支配していた
「劉璋(りゅうしょう)」に招かれて、
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「漢中(かんちゅう)」一帯を支配していた
「張魯(ちょうろ)」の侵攻を防いでいました。
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しかし配下の武将の「龐統(ほうとう)」や、
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劉璋配下の「法正(ほうせい)」
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は、なんとしてもこのまま劉備に益州を劉璋から取り、
「曹操(そうそう)」と
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対峙できるだけの勢力にしたいと考えていました。
益州という土地は山間部で道は険しいものの、豊かな土壌がある土地と100万人規模の領民もいるほどの土地。
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これだけの土地を見過ごしたくありません。
それは劉備も同じ気持ちでした。
益州侵攻を劉備は決めかねていたのですが、劉璋配下の者たちが少しずつ劉備に加担。
そうした声を受けて劉備は益州を取ることを決意するのです。
劉備が50歳の頃でした。
益州侵攻
劉備が51歳になるころ。
劉備たちはまだ防衛の任務についていました。
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劉璋には、劉備たちが益州を乗っ取ることを知られてはいけません。
計画は、秘密裏に勧めていきます。
そんな時、同盟関係にあった「孫権(そんけん)」
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から、救援要請がきました。
劉備はコレをチャンスと思い、計画を実行します。
まず劉璋に、事情を伝えて移動を開始します。
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その間に劉備は劉璋からのお目付け役として来ていた
「高沛(こうはい)」と
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「楊懐(ようかい)」
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の2名の武将をだまし討ちして殺害。
益州地域の首都、「成都(せいと)」へとむかいました。
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この侵攻に合わせて劉備配下の
「諸葛亮(しょかつりょう)」
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たちも劉備たちの増援に向かいます。
そうして順調に次々と城を落としていくのでした。
連戦連勝した劉備。ある日宴会をした劉備は酔っ払い
「今日は本当に旨い酒だな!!」と楽しんでいました。
それを聞いた龐統は
「まだ巴蜀を取れたわけじゃないのに、そんなに上機嫌に酔っ払うのは名君とは言えない行動ですよ?」
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と言って劉備を諌めようとします。
この言葉にイラっときた劉備は
「昔いた周の武王は、連戦連勝したときに配下をねぎらうために宴を開いたというぞ?それこそ仁義だろ?無礼者が!出て行け!!」
と言って衝突します。
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龐統はさっと席を離れますが、劉備は我に返って龐統に席に戻るようお願いします。
しかし龐統は劉備を無視、謝りもしません。
そこで劉備は
「さっきの討論、どちらが間違っていただろうか?」
と聞くと龐統は
「2人とも、間違っていました。」
と答えます。
これに劉備は大笑いして場が和んだというエピソードがあります。
一件、龐統と劉備の信頼ぶりが見て取れるエピソードですが、それ以上に劉備がまだ仕えて間もない龐統に対して、かなり気を使っているのがわかります。
このことから、劉備にとっては益州侵攻に、なくてはならない存在だったのは間違いないと思います。
最初は順調に行った成都侵攻も、徐々に守りが固い城が増えてきました。
特に劉璋配下の「張任(ちょうじん)」
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が守る城は包囲しても落とせずにいて、その期間は早くも1年以上となっていました。
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天下三分成立。
劉備が52歳になり、まだ張任が守る城を落とせずにいた時、悲劇が訪れます。
大量の矢が飛んでくる中で、龐統がその矢に当って絶命してしまうのです。
悲しみにくれる劉備でしたが、それでも戦いを辞めるわけにはいきません。
そんなおりに諸葛亮などの増援部隊が到着。
劉備の勢力はまた勢いを取り戻します。
龐統の死に様は「三国志演義(さんごくしえんぎ)」ではかなり着色がされています。
龐統は劉備の乗っている馬「的盧(てきろ)」に乗って劉備よりも先行し
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劉璋軍の伏兵が劉備と勘違いして殺されたという展開になっています。
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この事件がきっかけで、劉備は龐統の仇討ちのために成都への侵攻を決定づけたというようになっています。
なぜこんな展開になったのか?
多分劉備を「清廉潔白(せいれんけっぱく)」な名君として描きたかったことと、
龐統の出番事態が少なかったからでしょう。
「三国志演義」では、主人公劉備を思いっきり美化して描いているので、その影響で成都征服の流れも変えています。
龐統についても、パッと出てきたのに劉備に信頼され、パッといなくなってしまう人物なので、影が薄いといわれても仕方ありません。
なのでこういったエピソードを加えることで、劉備陣営にもっと華を就けたかったのだと思われます。
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ちなみに、上記画像の中国三国志ドラマ「Three Kingdom」の龐統役がもうハマり役で…
一番好き…
長い戦いが続いていましたが、ここで朗報が入ります。
張魯のところにいた猛将「馬超(ばちょう)」
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が、劉備軍に降伏を申し出たのです。
この申し出に劉備はすぐに応じ、馬超も劉備軍に加わりました。
これにはもうかなわないと思った劉璋は
「もうこれ以上領民を苦しめるわけにはいかないか…」
と言って降伏。
ついに劉備は益州という大きな領土を手に入れ、荊州も含めるとかなり大きな領土を得ることになったのです。
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こうして劉備は諸葛亮が描く、「天下三分の計(てんかさんぶんのけい)」
を実行に移すことに成功し、ようやく一大勢力として名をあげることになったのです。
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ちなみにこの頃、劉備の正室となっていた「孫尚香(そんしょうこう:孫夫人)」
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は、劉備の元を離れています。
三国志演義では、劉備の息子「劉禅(りゅうぜん)」
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も連れて返ろうとしていたため、「趙雲(ちょううん)」
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が諸葛亮の命令で孫尚香を追いかけ、劉禅を取り戻すというエピソードがありますが、これは
「三国志演義(さんごくしえんぎ)」のみのフィクションという説があります。
「正史三国志(せいしさんごくし)」では、劉備の益州平定後に孫尚香は離れているようです。
離れた理由はいろいろ説がありますが、一番有力なのは孫権がその後劉備と敵対するためにあらかじめ孫尚香を帰還させたのではないでしょうか。
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実際のところはわかりませんが、この後孫権との仲はますます悪くなることから、一番有力なのが孫権側の意向だったのは間違いないでしょう。
劉備の生涯その8(54~59歳)隆盛と別れの50代後半
劉備が益州という安定した地盤を得て喜んでいる間、勢力拡大を警戒する人物がいました。
それが同盟先の「孫権(そんけん)」でした。
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元々孫権陣営のおかげで荊州の地を劉備は取ることができたと考えていたため、劉備に何度も荊州の統治権を譲るように話をします。
当初から劉備としては「「西涼(せいりょう:中華の西北にある土地)」を手に入れたらお返しします。」
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と言って、荊州は劉備が一時的に借りている状況でもあったのです。
しかし、孫権はその土地を支配するまでどのくらいかかるのかもわからないことや、
孫権本人だけでなく軍部の者たちの不平が募っていたため、その要求には懐疑的でした。
劉備と孫権の同盟関係は、お互いの想いがすれ違い非常に危うい関係性にあったのです。
孫権との確執
劉備が54歳のころ。
劉備が益州という地を手に入れたことによって、孫権はあらためて
「荊州の地をそろそろ返してほしい。」
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と願い出ます。
しかし劉備は当初言っていた通り、「西涼を取ってからで…」
と返答したため、孫権はついに怒って荊州に軍を出すのです。
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劉備陣営はまだ益州の地を得たばかりで領民の支持や治安の安定などで、
まだ余談の許さない時でした。
さらに荊州からも蜀の地へ軍を派遣していたため、守りも手薄くなっていました。
焦る劉備は和平の使者を送ります。
そうこうしている間に荊州南部の地域は孫権軍の「呂蒙(りょもう)」
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によってそのほとんどを奪われてしまいます。
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さらに事態は急展開をしており、漢中にいた張魯が曹操軍に降伏。
漢中も曹操軍に奪われてしまったことで、劉備としては予想よりも早く曹操と戦う必要があったのです。
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そういった事情から、荊州南部の大半の地域の領有権は孫権側に譲渡することで和解。
こうして劉備は曹操軍がいる「漢中争奪戦」へと向かうことになるのです。
孫権はこの和解にあまり乗り気ではありませんでした。
しかし孫権側の「魯粛(ろしゅく)」
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などを筆頭として一部臣下は、劉備と同盟関係を続けることを支持していました。
理由としては、曹操軍を倒すには孫権軍だけでは難しいという理由が大きいのです。
そのため孫権の意思としては裏腹に、劉備との同盟を結ぶしかないのが現状だったのです。
漢中争奪戦と忠臣の死
58歳になった劉備。
蜀の地も安定したことで本格的に漢中への侵攻に向かいます。
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実は、これが劉備対曹操の最後の戦いになります。
この戦いでは防衛に当っていた曹操の腹心
「夏侯淵(かこうえん)」と
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「張郃(ちょうこう)」
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がおりましたが、見事夏侯淵を打ち取り漢中を手に入れることに成功します。
(後に街亭の戦いとして有名な一戦となります。)
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曹操軍本体が到着したときにはすでに漢中は劉備に支配されていたところでした。
その後も曹操軍は漢中に侵攻を開始しますが、そのいずれも防衛に成功。
ついには曹操軍も撤退することになり、曹操軍に勝利したのでした。
59歳になったころ、曹操は「魏王(ぎおう)」の位に上がり、劉備はこれに対抗して
「漢中王(かんちゅうおう)」を名乗ります。
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しかし喜びも束の間、荊州から北上して曹操軍を攻撃していた
「関羽(かんう)」の部隊が、「呂蒙(りょもう)」の作戦によって捕らえられ、処刑されたと知らせが届きます。
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孫権は関羽を討ったことで、荊州をすべて手に入れることになったのです。
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この報告に劉備はひどく悲しみ、関羽への弔い合戦として孫権に軍を向けることにするのです。
「軍神(ぐんしん)」として名高い関羽はその死後、首は曹操の元に送られることになります。
曹操はその首を都の「洛陽(らくよう)」にて墓を立て丁重に弔ったとのこと。
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劉備の生涯その9(60~62歳)長い旅の終わりとなる晩年
関羽の死とほぼ同時期に、劉備にまたも知らせが届きます。
それが、曹操の死。
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長年宿敵とした曹操が死に、劉備は弔問の使者を送ります。
敵同士とは言え、曹操とともに過ごした日々や関羽を丁重に弔った人物でもある曹操には、複雑な感情があったのでしょう。
結局劉備の使者は曹操の息子「曹丕(そうひ)」
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によって、父親の死が利用されないようにということで殺害されてしまいます。
蜀漢の建設
曹操が亡くなった1年後。
劉備が59歳の頃に曹丕が後漢の献帝から、「帝位」を「禅譲(ぜんじょう:自分の地位を譲ること。)」します。
国の名前を「魏(ぎ)」にし、曹丕は初代皇帝として君臨したのでした。
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このことに反発したのが、当然劉備でした。
劉備は臣下の者たちから強く推薦され、ついには益州の地で「帝位」に就くことを宣言します。
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劉備は、自分が「漢王朝の末裔」で、漢の王朝を引き継ぐことから、「蜀漢(しょくかん)」という国名にするのです。(資料によっては、漢のみの記載もあります。)
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しかし同年の6月。
今度は「張飛(ちょうひ)」が部下の裏切りにあって暗殺されます。
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劉備はその報告の使者が訪れたと同時に
「ああ…張飛も死んだか…。」
と、その死を予感していたかのように泣いたのだとか。
こうして、劉備の中でも黄巾の乱から付き従った家臣たちが次々と亡くなってく失意の中、劉備は孫権の征伐に向かうのです。
劉備が皇帝についたころのこと。
劉備の晩年に付き従った正室の妻がいました。
名前を「呉夫人(ごふじん)」。
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劉備の4人目の妻と言われ、呉から来た人物でした。(孫尚香とは別人です。)
もちろん、この妻とも子供ができず、いつ頃結婚されたのかも不明。
しかし、皇帝の位についたときには、皇后の位につき、死後は劉備の墓に入ったのだとか。
謎の多い人物です。
最後の戦い
劉備が60歳になった頃。
ついに孫権討伐の軍を起こします。
その際最後まで反対したのが、劉備と長年付き従ってきた「趙雲」でした。
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しかしその反対を押し切って侵攻を開始。
![](https://www.sangokushi.blog/wp-content/uploads/2023/01/921a71af4c2eef993dc70f56c78a9455.png)
初戦のうちから連勝を重ねていきます。
しかし翌年の61歳になったころ。
孫権軍の「陸遜(りくそん)」
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によって「夷陵(いりょう)」という場所で
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火計の作戦に嵌まり、大敗。
多くの臣下たちが孫権軍に捕らえられるか、討ち取られていきました。
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その後劉備は蜀と荊州の中間地点、「永安(えいあん)」という場所の「白帝城(はくていじょう)」に逃げ込みます。
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この戦いで心身ともに疲弊しきった劉備は病に倒れることに…
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孫権は劉備が白帝城にいることを知ると、使者を送り和睦を申し出ます。
これに劉備は了承し、再び孫権陣営と蜀漢が同盟関係になるきっかけをつくることになるのです。
こうして劉備は62歳の時に長い戦いの歴史は、幕を下ろすのでした。
諸葛亮らも劉備の元を訪れ、劉備は諸葛亮に遺言を残すことになります。
特に有名なのが、
「劉禅が皇帝としての素質がある場合、その補佐をして欲しい。もしも我が子がその素質がなかったら、そなたが国を治めてくれ。」
と諸葛亮は遺言を残されます。
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しかし一説には、これは諸葛亮が国を取ることがないように言ったという説もあるのです。
真相はわかりませんが、その後諸葛亮は生涯劉禅を支える忠臣として活躍することになります。
さらに劉備には劉禅意外にも
「劉永(りゅうえい)」
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「劉理(りゅうり)」
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という、母親違いの子供を作っていますが、その母親については現在も判明していません。
もしかしたら、呉夫人の子供の可能性もあるかもしれませんが…
劉備の生涯筆者の感想
劉備の一生を見ると、晩年になってようやく自国領土を獲得できてこれからという時に、亡くなってしまうという、なんとも惜しい人生のように思います。
そんな惜しい人生だったからこそ、三国志の物語としては
「悲劇の英雄」
としても人気が高いのではと思います。
そんな劉備だからこそいろんな噂がたくさんあり、より劉備の人物について考察がたくさん囁かれています。
ここからはその噂について、代表的なものを3つほどご紹介していきます。
劉備の噂その1:女に興味がなかった
まず最初に、劉備は女性に興味がなかったとする話です。
というのも劉備はあまりにも子宝に恵まれなさすぎる!
妻にした女性を大事にしないことや、史実や演義を見ても、女っ気がないない…
「趙雲」が子供や妻を連れ帰った際にも、妻や子供を気がかりにするより「趙雲」を気にかけたのだとか…
まるで女性に対してかなり冷淡な人物であるかのようです。
では本当のところはどうだったのか??
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あくまで私個人の感想ですが、「そんな余裕がなかった」というのが結論でしょう。
劉備は常に流浪を繰り返し、その度に妻子を人質に取られる日々…
冷淡と言われても仕方ありませんが、割り切らないと自分の理想を実現できないと考えたのでしょう。
「明日にはもう命がないかもしれない…」
そう思ったら仕方がないことかもしれません。
また、古代の中国では今以上に価値観や女性や子供の立場も違うものですし、そういう意味では仕方がないものかもしれません。
ただ、女性に興味がないかと言われたら決してそうではなく、妾も含めて4人の女性と結婚。
歴史書には書いていなくても、少なくともその人数以上に女性はいたと考えるのが自然でしょうね。
劉備の噂その2:仁の人
三国志演義などを見ると、よく劉備は「仁の人」あるいは「仁君」などと表現されています。
「仁」というのは、他人に対する愛情深い人を意味する言葉で、劉備が民を愛して慕われていたことからそんな表現がされています。
現に史実においても劉備は曹操から逃げる際に、10万規模の民を引き連れたエピソードもあります。
こうした点において、劉備は人を大事にする「仁の人」と言われているのです。
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でも…本当でしょうか?
劉備はどちらかというと、「任侠」の人というのが一番しっくりくるのではないでしょうか。
劉備は若い頃、役人を木に縛り付けて棒で滅多打ちにしていますし、荒くれ者だった「関羽」や「張飛」が付き従うくらいある程度やんちゃだったのは間違いないでしょう。
また政治を優先するよりも横領などの不正を働くのを嫌っていて、徐州統治時代には不正を働いた役人を大勢処罰しています。
結果的にその行為が民の暮らしが緩和されたことにつながり、劉備を指示する人が増えたのではないでしょうか。
要は、「自分の生きる上での価値基準で、法律を度外視して行動していた。」という人物だと私は見ています。
劉備は人の恩を大事にしようと動いているのが主になっているので、どうしても行動として人に好かれやすく、慕われるようになるのでしょう。
「…じゃあ曹操をなんで裏切ったのか?」
ということになりますが、そのときにはすでに徐州を一時的に治め、たくさんの人に支持されるほどの人物となっていました。
ある程度野心があったため、裏切る行動に出たと思われます。
劉備の噂その3:子供を大事にしない
劉備は前述した、女性に興味がなかったと言われることと同様。
自身の子供もあまり興味がないように思われています。
その理由としては、前述した「趙雲」が子供を救出した際に、子供を投げて部下を心配しました。
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その他にも
「阿斗の代わりに糜が逝ったか…」
と言ってみたり、
「息子が駄目なら君が代わりに皇帝になってくれ。」
と諸葛亮に言ったりと、自分の子供に対して冷徹なイメージを持たれそうなものも多くあります。
本当のところはわかりませんが、筆者としてはこれらは単に現代の価値観で考えているだけで、劉備自身としては、部下との信頼関係を崩さないために、あえてやったパフォーマンスだったのではないでしょうか。
あの時代、劉備を付き従っている武将は多くいましたが、それでも劉備自身は確固たる領土があるわけでもなく、あくまで理想や劉備自身の人柄についていった人たちばかり…
そんな中で身内ばかりに気をかけると、いつ部下が心離れするかわかりません。
だからこそ、劉備は身内よりも部下を大事にしようとしたのではないでしょうか。
それなら劉備がそんな行動を取るのも納得すると思われます。
その他媒体での劉備について
劉備はやはり三国志の主人公の一人ということで、たくさんの媒体で登場しています。
アニメや漫画作品、ゲームなんかは「三國無双」なんかも有名ですよね?
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私はよくコーエーテクモさんが出している、「三国志」シリーズをプレイしているのですが、その中でも最新作の「三国志14」のステータスがなかなかおもしろいことになっております。
それがこちら
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劉備さん、とにかく
「魅力が突出している!」
さらに個性には「脱兎」「強運」「再起」「求心」と、劉備の
「逃げても人を引き付ける力と運がいい!そして何度も復活する!」
といった人生を反映していますね。
私自身も使用感としては…
前線ではあんまり使わないなあ…
と言った感じですね。
ほどよく使えるけど優先的に軍を率いて戦闘に参加しない…内政を任せてもまあそこそこ…という感じで
「THE・器用貧乏」
なキャラでした。
もちろん君主として使用する限りではあまり気にならないんですけど、
個人的には傭兵隊長だったことや、徐庶や諸葛亮加入までは実質作戦なども劉備が立てていたことも考えたら、もっと統率力や知力が80台だったらよかったんじゃないかなと思います。
でも君主ですからね。
後方に構えているからステータスとしてはこの位でもいいのかも…
まとめ
というわけで、劉備の生涯について3回に渡って解説いたしました。
日本では主に三国志演義ベースでの物語が多く題材にされていますが、個人的には正史三国志をベースにした
「蒼天航路」
の劉備の方が、演義の劉備よりも猿っぽくて人間性があるキャラになっているので、めっちゃ好きです!
なんか大泉さんの三国志みたいで…
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この作品は個人的にもおすすめな作品なので、興味がある方呼んでみてはいかがでしょうか?
それでは今回はここまで!!
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