三国志演義の主人公、「劉備(りゅうび)」は妻や子供たちに冷たかったのは本当?正史と演義の違いって?どんな人物か徹底解説!:中編

三国志演義の主人公、「劉備(りゅうび)」は〇〇な人!?妻や子供たちに冷たかったのは本当?正史との違いとは?どんな人物か徹底解説!:中編用画像その1蜀の武将

今回も三国志の主人公
「劉備(りゅうび)」の生涯についての解説「中編」になります。

「前編」では劉備がこの世に生まれ、どんな人と親交を深めたのか。
そして世の中にはじめて名前が上がるようになるまでの軌跡を描きました。

そして今回は紆余曲折を経て、世に大きく名前を知られるようになるまでのお話を描いて参りますので、どうか最後まで御覧ください。

「前編」がまだの方は、そちらもぜひごらんください。

劉備の生涯その4(36~40歳)苦難を迎える中年期

劉備が「徐州(じょしゅう)」の地を治めていた時、「呂布(りょふ)」

の侵攻を受け領土の半分以上明け渡すことになり、
隣の領土の「曹操(そうそう)」

の下に身を寄せることになります。

が、劉備はまだ領土奪還を諦めたわけではありませんでした。

そんな劉備が36歳になる頃のこと。
世の中の情勢がまた大きく変わることになるのです。

皇帝「袁術(えんじゅつ)」

呂布の陣営は、劉備がいた徐州を中心に勢力を少しずつ伸ばしていました。
そんな折に劉備と呂布は一時的に和睦をし、お互いに侵攻しない約束を交わします。

劉備はこの時、南側の「寿春(ちしゅん)」という都市を中心に勢力を作っていた、
「袁術(えんじゅつ)」と戦うことを優先していたのです。

袁術はこの時、
「漢王朝はもう復興は無理!新しい国を作らなければ!!」
と思っていました。。
「反董卓連合(はんとうたくれんごう)」時に、部下でもあった
「孫堅(そんけん)」の息子

「孫策(そんさく)」から、

「玉璽(ぎょくじ:代々皇帝に引き継がれている印鑑)」

イメージ画像引用元:https://three-kingdoms.net/7139

を渡され、気持ちが大きくなった袁術は、
「私こそが皇帝になるべき存在だと天が言っているのだ!」
と思っていたのです。

袁術はまだ世の中が安定していないにもかかわらず、
自分で皇帝の名乗ったのです!

国の名前を「仲(ちゅん)」と呼び、各勢力の代表にも自分が新たな国の皇帝であることを告げるのです。

これには各勢力から猛反発
皇帝就任を祝う勢力はいなかったのだとか。
また袁術本人も私利私欲に走り、自分の領内で重税を庶民に貸したため生活そのものが貧しくなる人が増加。
次第に治安が悪化していき、民衆から反発が多くなっていきます。

そんな袁術の悪政に臣下の者も次々離れ、次第にその勢力は衰弱していくことになるのです。

英雄の最後と新たな動き。

劉備が37歳になるころ。
ついに呂布が劉備を攻めてきました。

袁術と呂布は同盟を結んで、攻めてきたのです。
これには劉備も曹操に救援を要請。

このことで曹操も本腰を入れて呂布討伐に乗り出すのです。

共同戦線となったのはいいものの、呂布の猛将たちに手を焼く劉備と曹操陣営。
そこで曹操は水攻めを行って、呂布を包囲する作戦に出ます。

長期間籠城戦となった呂布陣営でしたが、部下の裏切りによって呂布は捕らえられ、城は陥落。
ついに呂布陣営を降すことに成功するのでした。

※呂布は捕らえられた後、曹操、劉備の前に連れ出されます。

呂布は当時その武勇だけでなく、悪政をしいた人物「董卓(とうたく)」

を暗殺し、英雄視もされていました。
劉備もそのことがあったから自分の陣営に招いたのですが、結局は裏切っています。
呂布は曹操に
「オレの武力がお前の軍に加われば、お前の勢力に敵はいなくなるだろ!?どうだ、オレを配下に加えてみないか!?」
と誘います。

曹操が考えていると、劉備は横から
「呂布は以前、忠誠を誓った主君を2回も裏切っています。そのことをお忘れですか?

と告げたのです。

しかしそれを聞いた呂布は
「劉備!お前こそ信用できない男じゃないか、この大耳野郎!!」
と激怒。
そんな罵倒をしつつ、呂布は処刑されてしまうのでした。

その後劉備は曹操に連れられて「献帝(けんてい:当時の皇帝)」と謁見することができます。

帝は劉備が同じ一族であることを喜んで、「左将軍(さしょうぐん)」という位に就くことになります。

この頃曹操は劉備を自分と同格の者として扱っていると言われています。
というのも、この時の曹操の位は「大将軍(だいしょうぐん)」
劉備よりも格段に上の立場にあるのです。

にもかかわらず、馬車は同じ馬車に乗り、席に座る時も同格の席を用意するなど、劉備を厚遇しているのです。
この時に曹操は
「今この天下において、英雄と呼べるのは君と私だけだ。」
と評価しています。

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「三国志演義(さんごくしえんぎ)」では、曹操が劉備に対して警戒しているともとられる場面ですが、筆者としては、劉備やその配下も含めて、曹操は自分の配下として招きたかったのではないかと思われます。
しかし、劉備はそう考えていなかったので、その後の動向も変わってしまったのでしょう。

劉備の出世は順調に思えましたが、劉備にまた大きな選択肢を迫られることが降りかかります。

それが
「曹操暗殺計画(そうそうあんさつけいかく)」です。

この頃宮中では、帝ではなく曹操に権力が集中しているのが問題視され、どうにか曹操を排除できないかと模索していました。

その筆頭が「董承(とうしょう)」という人物。

帝と血が繋がっている劉備にもその話を持ちかけ、
漢王朝復興のために尽力をしてほしいと依頼します。

悩んでいる劉備は、その計画を一旦保留。
衰退している袁術軍の討伐に向かいました。

ところがその道中、袁術は病死してしまいます。

しかしちょうど同じ頃に曹操が自身の暗殺計画を知り
劉備もこの計画に加担していることを知ります。

劉備も曹操が暗殺計画を知ったことがわかり、帰るに帰れなくなります。
そこで徐州に逃げ込み、再び独自勢力として名乗りをあげるのです。

こうしてまた徐州を中心に旗揚げした劉備。
民衆からの人気があったため、すぐに迎えられる形になった劉備ですが、
そう長くはもちませんでした。

流浪の身へ

曹操からすれば、思わぬ形で裏切られてしまった劉備の裏切り。
劉備は曹操と敵対関係にあった袁紹と同盟を結んで曹操と完全に対立。

曹操は討伐軍を出すのですが、劉備はそれらをすべて撃退することに成功します。

「お前たちが100人来たとしても、オレには絶対にかなわない!曹操本人が来るならどうなるかわからないが、来ることはできないだろうな!」
と、劉備が曹操軍の討伐部隊に告げると、曹操は大激怒!

すぐに曹操は自ら指揮を取って劉備討伐に向かい、劉備もこれには応戦しますが敗走。
袁紹の元へ逃げることになります。

劉備の妻や猛将「関羽(かんう)」

と言った一部の者たちは曹操に捕らえられ、後に客将として招かれることになるのです。
その後劉備は袁紹の元で官渡の戦いに参加。

しかし、大きな戦果を上げることができずに終わります。

程なくして袁紹軍が敗北。

その後は関羽などの部下と合流し、中華の中央南に位置する「荊州(けいしゅう)」一帯を支配する
「劉表(りゅうひょう)」

のところに身を寄せることになり、およそ数年に渡って過ごすことになるのですが、
ここで運命の出会いを果たすのでした。

劉備の生涯その5(40~47歳)激動の40代

劉表の客将となった劉備。
この頃はすでに40代となっていました。

劉表に温かく迎えられたのですが、ちょうど曹操の支配する地域と劉表が支配する地域の間の「新野(しんや)」一帯を与えられ、曹操からの侵攻を防衛しながらその場所を栄える役割に担います。

ちょうど曹操自身が袁紹軍の掃討戦のために、「許昌(きょしょう)」を離れ、北方に赴いたところで、劉備は献帝がいる「許昌(きょしょう)」に侵攻しようと劉表に言います。

しかし、劉表はこれを断ります。

劉表は自国領土を守ることが最優先であり、さらには部下の反対もあったので、
劉備のように献帝を庇護する考えはなかったのです。

また、劉備の立ち位置も劉表の配下からしたら客将であり、
あまりよく思っていない人物も多くいました。

その筆頭にいたのが、劉表でも強い権力を持つ蔡家の「蔡瑁(さいぼう)」

や、劉表の妻、「蔡氏(さいし)」などです。

曹操の背後を今なら狙えるのに思うように動けないという悶々とした日々の中、
劉備はある人物と出会うことで運命が変わっていくのです。

三顧の礼

劉備が新野に居候してしばらくして、ある人物と出会い、気があったことで軍師として招き入れます。
それが「徐庶(じょしょ)」

徐庶は身分が低い家柄の出ではありましたが、昔から義侠心に熱く、学問に手を出す前は剣術に強く、仲間の仇討ちなどもしてきた人物でした。

そんな彼は劉備との会話でその人柄を気に入り、
「ぜひ合わせたい人物がいるんですが、会ってみませんか?」
と誘います。

その人物が「諸葛亮(しょかつりょう)」

「臥竜(がりょう)」と言って、
まだ世の中には出ていないけれど、たちまち世に出たらすさまじい活躍ができる人物である
と評価される人物でした。

ぜひ会ってみたいので呼んでほしいという劉備に対して、徐庶は
「私が呼んだくらいで来るような人物ではありません。劉備様が自ら足を運んでいかなければ、彼は会うことすらしないでしょうね。」
と言い、どんな人物かとわくわくしながら劉備は諸葛亮を訪ねます。

一回、二回と劉備は諸葛亮を訪ねますが、諸葛亮には会えません。

部下からも咎められますが、どうしても会いたい劉備。
三回目にしてようやく諸葛亮と会うことが出来ました。

ここまでして会いに来る劉備と諸葛亮はその後意気投合、諸葛亮は劉備に仕えることになります。
この出来事を「三顧の礼(さんこのれい)」と言われるようになるのです。
劉備が46歳のころでした。

劉備にはこの頃、関羽や「張飛(ちょうひ)」

と言った旧臣だけでなく、旧知の仲であった「趙雲(ちょううん)」

劉備の経済面を支えた「麋竺(びじく)」

などの有能な人物が数多くいました。

しかし戦略や軍略を考える者が不足していました。
この徐庶や諸葛亮といった者たちと出会ったことで、今後の自分の方向性が定まっていきました。

その代表例が「天下三分の計(てんかさんぶんのけい)」

これは中華を3つの勢力に分けて勢力の拮抗を保ち、劉備ともう一つの勢力で共に曹操を討つというもの。

これを諸葛亮から伝えられたことで、劉備の活動方針が決定したのです。

しかし、諸葛亮が劉備勢力に入ったのと同時期に、諸葛亮を紹介したはずだった徐庶が劉備の配下から離れることになります。

長阪坂逃亡戦

劉備が新しい人物やその思想と触れ合い、今後の方向性がわかったのもつかの間、
北方での戦いを制した曹操が、劉備や劉表がいる荊州へと攻めてきたのです。

また時は運悪く、劉表も病死。
跡を着いだのが、「劉琮(りゅうそう)」でした。

ところが劉琮は曹操軍に降伏してしまったのです。
これには劉備が仕えていた諸葛亮も
「もうこのまま劉琮を討って、荊州を奪うのも一つの手ですよ?」

と言いますが、劉備は
「それは大義名分もないし、駄目だ!」
と言って断ります。

そうして劉備は逃亡を開始。
逃亡する先は「江夏(こうか)」という場所です。

幸い劉琮の兄、「劉琦(りゅうき)」

は劉備に協力的だったため、江夏の地域だけはまだ曹操に降伏していなかったのだとか。
劉備はそこに向けて逃亡しようとすると、なんと劉琮の配下や市民たちも一緒に行くということで、10万人規模の大行列が出来てしまいます。

当然逃亡する足取りは遅く、すぐに曹操軍に追いつかれてしまいます。
臣下からは民を捨てるように言われますが、劉備はこれを拒否。

劉備の臣下たちが時間を稼ぎながら、なんとか江夏に逃げることに成功します。
そこで、劉備は曹操と対峙するために準備をすることになるのです。

史実ではこの戦いを「長阪の戦い(ちょうはんのたたかい)」と言って、
趙雲が一人で劉備の一人息子を救出するという活躍がある場面です。

イメージ画像引用元:https://okapi.books.com.tw/article/9495

これはフィクションではなく史実として描かれています。

この時に劉備の妻「糜夫人(びふじん)」

は亡くなっており、趙雲は命がけで劉備の側室「甘夫人(かんふじん)」

一人息子の「劉禅(りゅうぜん)」

の救出をしたのでした。

また、時間稼ぎをするために部下の張飛が橋の上で曹操軍と対峙した話も有名ですが、

こちらも実際にあったエピソードになります。

孫劉同盟と赤壁の戦い

命からがら逃げた劉備は、曹操陣営と対抗するために、中華の南東「揚州(ようしゅう)」
に勢力を構える「孫権(そんけん)」と手を結びます。

孫権陣営も同じ考えだったようで、孫権陣営からは
「魯粛(ろしゅく)」

という人物が仲介役として面会。

孫権の陣営のほとんどの臣下が曹操に降伏するという現状を聞き、
その説得役として行ったのが諸葛亮でした。
諸葛亮は孫権陣営を説得。

孫権陣営の軍師、「周瑜(しゅうゆ)」

も曹操への徹底抗戦に名乗りを上げて、一気に孫権陣営も徹底抗戦の構えになります。
そうして、「孫劉同盟(そんりゅうどうめい)」が締結されるのでした。

その後、赤壁の戦いにて曹操軍を大いに破ることになります。

その戦力差は
孫劉同盟軍:約4万~5万
曹操軍:約93万

と言われています。

劉備が47歳の頃のことでした。

劉備の生涯その6(48~50歳):勢力拡大をする高年期

赤壁の戦いの後、その勢いに乗る孫劉同盟。

特に劉備軍は、荊州南部にある4つの州を次々落として自分の勢力としていきます。

さらに荊州の北部地域も、孫権軍が交戦中の中を劉備軍が半ば強引に横取りする形で占領。

こうした行為が後々、孫権と劉備の間で確執を生むことになっていきます。

孫家との縁談

劉備が荊州でその勢力が拡大していくのを快く思っていない人がいました。

それが孫権です。

孫権からすれば、自分の軍が主体となって活躍した赤壁の戦いに勝利しても、
得られる土地や財産もなかったため、孫権本人だけじゃなく部下からも不満が多くあったのだとか。

そうした背景もあって孫権は劉備の勢力拡大を阻止しようと思っていたのです。
そこで孫権は、自分の妹「孫尚香(そんしょうこう:孫夫人とも言う)」との縁談を持ちかけます。

これに劉備は快諾。
晴れて夫婦になるのですが、当初は劉備を人質にとって劉備軍を吸収するつもりでした。

しかし、その護衛についた人たちがあまりにも強力な武将ばかりだったため、
その作戦は取り止めになります。

後に蜀の領土を一緒に取ろうと劉備に持ちかけますが、結局はその提案を断ることになるのです。

劉備と孫尚香の2人の年齢差は、この時30以上の差があったのだとか。

実は劉備の側室、甘夫人はすでに赤壁の戦い後に亡くなっており、
劉備はこの縁談はそこまで気乗りしなかったのが本音だったという。

そんなこんなで夫婦関係も悪く、常に孫尚香には武装をした100人ほどの侍女がおり、
かなりわがままな女性でした。

当然劉備も夫婦なのだからと、床を一緒にする時もあったのですが。奥に入るたびに劉備は、
「いつ機嫌を損ねるかわからないから、いつもビクビクした。」
と記録があります。

孫尚香は結局心まで開くことはなく、ついには子供もできることはありませんでした。
その後、孫尚香は劉備と孫権の間が不仲になったことで、帰国することになります。

蜀の地へ

中華の南西部には、「益州(えきしゅう)」という名前で呼ばれていて、
その土地を支配しているのが、
「劉璋(りゅうしょう)」という人物でした。

この劉璋という人物、若い頃から巴蜀を治めていたのですが、領民思いではあったものの部下のいいなりの部分もあって優柔不断な人物だったようです。

そのためか、一部の部下からはあまり人気がありませんでした。
そんな人物から、劉備に援助を求められるのです。

劉備が50歳の時でした。

当時劉備は荊州のほとんどを手に入れ、後は益州を手に入れて一大勢力を築く目標がありました。
しかし、劉備には劉璋を討伐する理由がなかったのです。

ここで自分の理想を実現するために劉璋を討伐すれば、曹操と一緒だと考え、
また大義名分がなければ戦う通りはないという理由から動けずにいたのです。

劉璋の元へ迫ってくる軍は、益州の北の地にある「漢中(かんちゅう)」という領土を治める
「張魯(ちょうろ)」

劉備はこの要請に応え、関羽や諸葛亮などの旧臣を荊州に残して蜀へ行き、
防衛へと回るようになります。

そこで劉璋に歓迎されることになります。
その時、劉備の配下となった軍師「龐統(ほうとう)」

から、蜀を占領する機会だと提案されますが、これを却下。
「今はそんな状況じゃない。」
と言われます。

劉備軍は防衛のための武器や食料も手に入れ、3万の軍勢で張魯軍を待ち受けるのでした。
そんな劉備は前線に赴いた地で、領民や兵士たちと交流し、信頼を勝ち取っていくのです。

劉備の生涯前編(34~50歳)の筆者の感想

以上「中編」いかがでしたでしょうか。

「前編」以上に右往左往とした劉備。

結局一勢力として確固たる領土を獲得できないまま、ついには50歳を迎えようとしています。
一時的に治めた領土はどこも劉備の評判がいいため、それだけ民を大事にしていたのかがわかります。

この中編ではやはり「三顧の礼(さんこのれい)」で代表される「諸葛亮」との出会いでしょう。

ただこの「三顧の礼」

実は中国では「一、二、たくさん」というのに合わせるように、「三=たくさん」という意味もあるのだとか。

つまり、「少なくとも三回以上訪れた」
という意味にもなり、もっと多く諸葛亮を訪れたという説もあるのです。

この時のエピソードを、史実や演義では美談として語られますが、よくよく考えたら
46歳の実績がバリバリある劉備と
27歳の実績がまったくない諸葛亮

何度も訪れること事態が異例!!

じゃあなんでそれだけ訪れたのかという疑問がありますが…

それは絶対この人のせいでしょう!

そう、徐庶!!

徐庶はこの時すでに劉備の元で、魏も武将「曹仁(そうじん)」

の侵攻を防いでいます。
つまり、実績を作って信頼されている人物です。

そんな人物から「オレ以上にこいつすごいですよ!!」
と推されたらそんな有能な人物、絶対にほしいに決まってます!!

個人的な考察にはなりますが、劉備がそこまで諸葛亮を配下にしたかったのは、徐庶が強く推薦したからでしょう。

そんな徐庶も、曹操陣営の偽の手紙で劉備陣営から離れなくてはならなくなるとは、なかなか運命はわからないものですね…

「後編」では、いよいよ劉備が益州の地を中心として大きな基盤を作っていくのですが、そこから劉備の勢力は一時の繁栄と衰退の一途をたどることになります。

もしも「前編」がまだの方は、ぜひ読んでみてください。

それではまた。

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