三国志の主人公、曹操(そうそう)は〇〇な人だった!?子孫や嫁などは?その人生を詳しく解説!:中編

三国志の主人公、曹操(そうそう)はどんな人だったのか?子孫や嫁などは?その人生を詳しく解説!:中編用画像その1魏の武将

今回は『三国志』の実質的な主人公、

曹操の人物紹介「中編」

です!

「前編」では董卓登場までという、
まだまだ中国が動乱に入ろうとしている真っ只中のところで終えました。

この後曹操はどうなったのか?
どんなことをし、どんな苦難があったのか?

中編ではいよいよ盛りだくさんの戦いの日々が始まります。

そして「後編」は、曹操の晩年についてを述べてまいります。
晩年に曹操が遺した物や、その後の影響などについて触れてまいります。

では今回もぜひ最後までご覧ください!

曹操の生涯その4(35~36歳):連合軍への参加

曹操は35歳になったころ、世の中は「董卓(とうたく)」の独裁政治により、
各名士や権力者たちだけでなく、一般市民の間でも不満が高まっていました。

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そんな董卓に対して、先祖代々の名門一家、袁家出身の

「袁紹(えんしょう)」

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が各諸侯に呼びかけ、

「反董卓連合(はんとうたくれんごう)」
を立ち上げました。

この呼びかけに、曹操も応じて参戦!
ついに曹操は董卓と対決することになります。

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※曹操は董卓の元から逃げた後、故郷に帰って自分の財産や援助を受けながら、
独自の軍を作って挙兵していました。
その時曹操の呼びかけに応じたのはまだまだ身内ばかりで、
5000人くらいの軍しかいない弱小勢力
しかしそのメンバーには、

「夏侯惇(かこうとん)」(隻眼でかっこいいけど戦績が地味な人!)

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夏侯惇画像引用元:https://www.gamecity.ne.jp/smusou8/chara_kakouton.html

「夏侯淵(かこうえん)」(弓の名手で特殊部隊隊長!)

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「曹仁(そうじん)」(いろんな各地を転戦した名将!)

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曹仁画像引用元:https://www.gamecity.ne.jp/smusou8/chara_soujin.html

「曹洪(そうこう)」(酒乱!)

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曹江画像引用元:https://sangokushi-fun.com/sangokushi14/bushou-14/data1410512/

など、その後に曹操軍の中核を担う逸材ばかりでした。
(曹家、夏侯家は本当すごい…)
さらに後に有名になる武将、

「楽進(がくしん)」(叩き上げの名将!)

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楽進画像引用元:https://www.gamecity.ne.jp/smusou8/chara_gakushin.html

「李典(りてん)」(学者肌の名将!)

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李典画像引用元:https://www.gamecity.ne.jp/smusou8/chara_riten.html

の姿もあったようです。

またこの頃、袁紹と曹操は親友の間柄と言われている記述もあるが、
少なくとも曹操はそう思っていなかったようです。

連合軍結成!しかし…

反董卓連合が結成されたはいいものの、各諸侯はライバル同士であり、争っていた間柄です。
集合したのはいいものの、
自分の戦力は出したくないと思っていたり、
どう貶めてやろうかと考える者ばかりで
まとまりません。

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画像引用元:https://www.gamer.ne.jp/news/202107300021/

こういったときは盟主である袁紹がまとめるべきなのですが、
袁紹はそれぞれの諸侯の顔色を伺うばかりでこれまた全然まとまりません。

曹操は袁紹だけでなくそれぞれの諸侯の
「手柄を取りたいけど人任せ」
といった態度に、いろいろ思うことがあったのでしょう。

袁紹らの決定を待たずに自分で行動したという記録もあり、
この連合軍でまともに動いている部隊が、
「孫堅(そんけん)」率いる部隊と、
曹操率いる部隊くらい。

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孫堅画像引用元:https://gamewith.jp/sangokushihadou/article/show/243350

戦いは、孫堅が董卓軍の「華雄(かゆう)」を討ち取るなどの活躍もありましたが、
思わぬ方向に自体が転びます。

都「洛陽(らくよう)」の崩壊

戦いが思った以上に長引いたことから、
董卓は帝と一緒に「長安(ちょうあん)」
「遷都(せんと:首都を移すという意味)」すると決定します。

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その際に董卓は洛陽を焼き払って、廃墟にしてしまったのです。

こうして200以上近く続いた漢の国の首都は、崩壊することになります。

※この遷都の際、帝である「献帝(けんてい)」の兄、
「少帝(しょうてい)」とその母親が毒殺されてしまいます。
犯人は董卓配下の「李儒(りじゅ)」という男だそう。

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※遷都について悪く書いている文献が多いのですが、
当時洛陽の都は、大きな門がいくつかあってその門を守るのに多くの兵士が必要でした。
また「黄河(こうが)」にも面していて、防衛に適さない土地でもあります。

一方長安は元々古い時代から都として栄えた場所。
山岳地帯に囲まれていて防衛に適した土地ということもあり、
遷都をするのは戦略上アリだったのです。

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画像引用元:http://coretokyoweb.jp/?page=article&id=1107

洛陽を廃墟にしたのも董卓の部下に略奪させて
褒美代わりにしたという説もありますが、それ以上に
食料などの補給物資を敵に盗られ、追ってこられないようにするという、
当時の戦略的な意図もあったのです。

董卓はその辺の要所要所の戦略を守って行動していたのではないでしょうか。

曹操は全軍、あるいは精兵を出して董卓を追うことを提案しますが、
袁紹たちは動きません。

そこで孫堅に、精兵数千を借りて自分は董卓を追うこと、
代わりに孫堅には洛陽に入ってもらうようことを提案すると、快諾。

曹操は帝を取り返そうと董卓の後を追って部隊を走らせます。

※この時孫堅が洛陽に入り、
「玉璽(ぎょくじ:代々皇帝が受け継いだと言われている印鑑)」
を手に入れたとされています。

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しかし、そのことを袁紹たちには結局手に入れたことを言わずに、
持ち帰っています。

董卓を精兵で追っていた曹操。
しかし結局大敗してしまいます。

大敗しても連合軍は動かず、さらに孫堅も体調不良を理由に連合軍を抜けるとのこと。
こうしたことから曹操も嫌気が指し、連合軍を脱退。
脱退者が出たことから、そのまま連合軍は解散することになったのです。

曹操の生涯その5(36~39歳):群雄割拠で頭角を表す

反董卓連合が解散した後、36歳になった曹操は、
黄巾党の元残党であり、反董卓連合にも一勢力として参加していた
「黒山賊(こくざんぞく)」「張燕(ちょうえん)」が反乱をおこし、争っていました。

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張燕画像引用元:https://imasan.gamewiki.jp/busho_150/

この頃の曹操は反董卓連合での功績もあり、
彼の下に多くの人材が集まっていたのです。

その一人が後に「王佐の才(おうさのさい:王を補佐するほどの才能の持ち主)」と言われた、
「荀彧(じゅんいく)」が、曹操の部下になっています。

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荀彧画像引用元:https://www.gamecity.ne.jp/smusou8/chara_juniku.html

荀彧は元々袁紹の元にいたのですが、
袁紹は人柄はいいけれど大きな事業をこなせないと感じ、
袁紹から離れ、曹操の参加になりました。

※荀彧はこの後、多くの人材を曹操に推薦しています。
その中には、曹操だけでなくその子孫も支える人たちもいます。

代表的な人物として、

○曹操の初期の頃を支えた
「郭嘉(かくか)」
「荀攸(じゅんゆう)」
「戯志才(ぎしさい)」

○曹操の息子たちを支えた
「華歆(かきん)」
「王朗(おうろう)」

○法律や内政面、癖のある武将を陰ながらまとめた
「陳羣(ちんぐん)」
「趙儼(ちょうげん)」

○後に魏の実権を握ることになる
「司馬懿(しばい)」

と言った、非常に有能な面々ばかり!
つまり荀彧がいなければ、今日の曹操の活躍や魏がここまで大きくなることもなかったといえます。

青州兵誕生

37歳になった頃、曹操は黒山賊の本拠地を攻めることに成功し、
着実に功績を上げていました。

しかし、元黄巾党の賊が「兗州(えんしゅう)」という場所で暴れていると、
「鮑信(ほうしん)」という人物から救援を要請され、
曹操はそれに応じ、黄巾党の討伐を行うことになります。

この元黄巾党の数は膨大で、
兵士だけでも30万人、
非戦闘員だけでも100万人
はいたのだとか。

数が多いだけでなく、非常に屈強な者ばかりで曹操は苦戦していましたが、
何回も戦って、少しずつ追い詰めていき、やがて元黄巾党は降伏。

この時曹操は降伏した元黄巾党を一味に信仰の自由や土地を与え、
「青州兵(せいしゅうへい)」として数の少なかった曹操軍の主力部隊になっていきます。

※独裁政治を続けていた董卓が、この時に配下で猛将と名高い
「呂布(りょふ)」に暗殺される事件が発生。

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呂布は「董卓を倒した英雄」として功績を残す一方、
元の主君だった「丁原(ていげん)」を裏切って殺し、
更に董卓も裏切っていることから各諸侯から信用されなくなっていました。

対袁術戦

38歳の頃、地盤を固める曹操に「袁術(えんじゅつ)」が攻めてきます。

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袁術画像引用元:https://www.gamecity.ne.jp/smusou8/chara_enjutsu.html

曹操がこの時に収めていた場所は、
元々袁術の息がかかった人物が収めていた場所でもありました。

そこを中半強引に曹操が取ったことで関係が悪化します。

また袁紹と袁術は仲違いをしていたため、
それぞれ諸侯に仲間を求めて派閥争いをしていたのも原因の一つでした。

袁紹派閥に属していた曹操
袁術と争うのは当然でした。

袁術派閥には「公孫瓚(こうそんさん)」という人物を中心に、
後の蜀漢の建国者「劉備(りゅうび)」「陶謙(とうけん)」といった面々がいたのです。

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劉備画像引用元:https://www.gamecity.ne.jp/smusou8/chara_ryubi.html
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陶謙画像引用元:https://three-kingdoms.net/19463

曹操は袁紹の協力もありましたが、その全ての軍と戦い、勝利します。

ただこの勝利の後、曹操に不幸が訪れます。

曹操の父親でもある「曹嵩(そうこう)」と、
曹操の弟「曹徳(そうとく)」が、
陶謙に殺されてしまったのです。

曹操はこの報告を聞き、陶謙を深く深く恨むことになったのでした。

同年秋、曹操は50万の兵で陶謙軍を攻撃しました。

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しかも、男女関係なく皆殺しにしたのです。
よっぽど曹操が陶謙を恨んでいたことがこのことからわかると思われます。

窮地に立たされる曹操

39歳になった曹操は、もう一度陶謙を攻め、再び虐殺を行いました。

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その最中、最悪の自体が発生します。

それが、「張邈(ちょうばく)」と軍師の「陳宮(ちんきゅう)」の裏切りです。

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張邈画像引用元:https://three-kingdoms.net/21751
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陳宮画像引用元:https://www.gamecity.ne.jp/smusou8/chara_chinkyu.html

張邈は、曹操の最も信頼している人物であり、
何かあったらお互いの家族の面倒を見る約束もしている人物。

さらに、陳宮についても董卓からの逃亡を手助けしてもらい、
信頼していた人物でもあります。

この2人は呂布を引き入れて、曹操が支配していた地域をどんどん支配していきます。

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呂布画像引用元:https://www.gamecity.ne.jp/smusou8/chara_ryofu.html

曹操はすぐに引き換えして呂布を倒そうとしますが、敗退

屈強な青州兵も敗れ、ほとんどの城が呂布の支配下となっていきました。

曹操の本拠地自体は、荀彧や夏侯惇などの名将によって守られましたが、
曹操陣営は3つの城1万の兵士だけしかいません。もう絶体絶命のピンチです。

呂布軍は曹操にとどめを刺そうとがまた攻めようとしたところ
「蝗害(こうがい:バッタなどが穀物などを食べ尽くす災害)」が発生!

三国志の主人公、曹操(そうそう)はどんな人だったのか?子孫や嫁などは?その人生を詳しく解説!:中編その30
画像引用元:https://president.jp/articles/-/36617?page=1

度重なる戦いで物価も上がり、
「飢饉(ききん)」となって食糧不足になり、戦どころではなくなったのです。

そのため呂布は兵を引き、曹操の勢力は生き残ることができたのですが、
崩壊一歩手前の状態であるのは変わりありません。

曹操はこの一件で精神的にも追い詰められていました。

その時袁紹から、
「食料なんかの支援してやるから家族はこちらに非難させたらどうか?」
という提案が届きます。

要するに支援するから配下になれ、その代わりお前の嫁たちは人質な?と遠回しに言っているようなもの。
この言葉に曹操は気持ちがゆらぎますが、
これに配下の「程昱(ていいく)」に止められます。

三国志の主人公、曹操(そうそう)はどんな人だったのか?子孫や嫁などは?その人生を詳しく解説!:中編その31
程昱画像引用元:https://sangokushi-fun.com/sangokushi14/bushou-14/data1410691/

※気持ちが揺らぐ曹操に、程昱は
「袁紹は広大な領土はあるけれど、曹操様ほどの見識や知力は備えていません。
 そんな男の下で、わざわざ働く必要もありません。
 まだ私たちには3つの城と、1万人の兵士たちがいます。

 将軍には、有能な臣下が荀彧を始め従っているのですから、
 きっとこの困難も打ち払って、もっと大きな偉業を成し遂げることができるはずです!

 どうかもう一度お考えください!!」

程昱のこの言葉に、曹操は立ち直ることができたといいます。
本当曹操の下には有能な人材がこのころから多くいるのがすごい…

曹操が呂布や臣下の裏切りにあっている頃、陶謙が亡くなります。

その跡を継いだのは、陶謙の客将として働いていた劉備でした。

三国志の主人公、曹操(そうそう)はどんな人だったのか?子孫や嫁などは?その人生を詳しく解説!:中編その32
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曹操は陶謙軍からの報復も恐れていましたが、
しばらくの間は呂布のみに注力することができる状況となるのでした。

曹操の生涯その6(40~44歳):再起と地盤固め

裏切りがあった翌年、
40歳ごろの曹操は、再起を図るために奪われた居城を次々攻撃

そのほとんどを取り戻し、呂布の軍勢の撃破にも何度も成功していきます。

その後呂布軍の勢いはだんだんと小さくなり、
呂布や陳宮たちは曹操がいた領地から逃げ出していきます。

そして劉備の下に呂布は行くことになり、そこでもいろんな問題を抱えていくことになるのでした。

三国志の主人公、曹操(そうそう)はどんな人だったのか?子孫や嫁などは?その人生を詳しく解説!:中編その33
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また裏切った張邈とその家族は、
弟の「張超(ちょうちょう)」に家族を預けていることを曹操が知り、
張超を孔壁して、一族をすべて皆殺しにしたのです。

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張超画像引用元:https://wikiwiki.jp/sangokushi14/%E5%BC%B5%E8%B6%85

こうして曹操の再起は成功し、ここから更に飛躍していくのでした。

帝の保護

41歳になる年、董卓を暗殺した呂布を追い出した
「李傕(りかく)」たちがいる長安から、

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李傕画像引用元:https://gamewith.jp/sangokushihadou/article/show/243376

献帝が脱出。荀彧や程昱の勧めで献帝を保護。

曹操の居城としていた「許昌(きょしょう)」に迎え入れることにしたのです。

こうして曹操は献帝から、大将軍のくらいに推薦。しかしその位は袁紹に譲って、
その下の位である車騎将軍の位に任命されることになります。

※曹操はこの年、「屯田制(とんでんせい)」を始めました。
曹操は長い間戦いが続いたことで農地も荒れていたため、
荒廃した支配地をいち早く復興しなければなりませんでした。

土地の所有者もいつの間にかいなくなっている場所も多く、
農地を整備して税を納めないと、食料も資金もままなりません。

そうして生まれたのが、戦いがないときには兵士に農業をさせ、
積極的に農民に農具や牛などを貸して農業を行うような制度を作りました。

このやり方は日本でも採用されています。

宛からの脱出劇

42歳の頃の曹操は地盤がますます固まり、一大勢力になりつつありました。

そんな中、「宛(えん)」という場所にいた勢力
「張繡(ちょうしゅう)」が曹操に降伏し、城に招かれます。

三国志の主人公、曹操(そうそう)はどんな人だったのか?子孫や嫁などは?その人生を詳しく解説!:中編その36
張繡画像引用元:https://wikiwiki.jp/sangokushi14/%E5%BC%B5%E7%B9%8D

感激して心良く出向く曹操。。

その時に張繡の叔父にあたる「張済(ちょうさい)」の未亡人である
「鄒氏(すうし)」に出会い、夜な夜な不倫を重ねていたようです。

三国志の主人公、曹操(そうそう)はどんな人だったのか?子孫や嫁などは?その人生を詳しく解説!:中編その37
鄒氏画像引用元:https://gamewith.jp/sangokushihadou/article/show/300372

張繡は叔父に恩義があり、鄒氏のことも大事に思っていたようで、
曹操がずっと入り浸る様子が不満でたまりませんでした。

そうして張繡は夜襲をかけ、曹操を追い詰めます。

曹操は必死で宛から脱出!

三国志の主人公、曹操(そうそう)はどんな人だったのか?子孫や嫁などは?その人生を詳しく解説!:中編その38
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側近の「典韋(てんい)」が身代わりとなって脱出の時間を作り、

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典韋画像引用元:https://www.tv-osaka.co.jp/ip4/sangokuengi_k/onair/1205907_6360.php

さらに息子の「曹昂(そうこう)」が自分の馬を差し出し、

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曹昂画像引用元:https://gamewith.jp/sangokushihadou/article/show/243383

曹操を逃しました。

この事件で典韋、曹昂、さらには亡くなった弟の子供、「曹安民(そうあんみん)」も亡くなり、
曹操は一気に3人の忠臣や親族を失ってしまいました。

曹操も流れ矢が右肩に当ってケガをしていて、しばらく療養することになります。

※この時に長男を亡くしたことで、
正室だった「丁夫人(ていふじん)」は食事も喉に通らないほど悲しみ、

三国志の主人公、曹操(そうそう)はどんな人だったのか?子孫や嫁などは?その人生を詳しく解説!:中編その42
丁夫人画像引用元:https://game8.jp/daisangokusi/305050

曹操のことを恨んだのだとか。

丁夫人は子供に恵まれなかったため、前妻の「劉夫人(りゅうふじん)」が亡くなった後、その子供を自分の子供のようにかわいがったそうです。
曹昂の弟もいましたが早くに亡くなっていたので、その分曹昂への愛情は強かったのです!

そんな溺愛していた息子

「夫の不倫が原因で死んだ。」

となったら恨まれても仕方ありません。

三国志の主人公、曹操(そうそう)はどんな人だったのか?子孫や嫁などは?その人生を詳しく解説!:中編その41
画像引用元:https://tinyurl.com/2lhxh9as

その後すぐに丁夫人は別居
曹操は何度も戻ってくれないかと頭を下げに行きますが、丁夫人は絶対帰らないの一点張り。
ついには曹操が折れ、離婚することにしました。

後に曹操は、もう一度会えるなら丁夫人に会いたい。
あの世に行ったら曹昂と再開できることを願うとも言っています。

曹操が数ある女性で、何度も自分から出向いたり復縁を望むほど愛していたのは、この丁夫人だけ

そのため一番愛した女性ではないかと言われています。

呂布・陳宮戦終焉

43歳の頃の曹操は、長安を占領していた李傕を攻めて滅ぼし、長安を占領。

更には呂布には水攻めを行い、見事討伐。
雪辱を晴らし、呂布と陳宮を処刑したのでした。

三国志の主人公、曹操(そうそう)はどんな人だったのか?子孫や嫁などは?その人生を詳しく解説!:中編その42
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※この辺りの有名なエピソードとして、呂布の命乞いがありますが、それは劉備編を参照ください。
ここでは陳宮の方をフォーカスします。

曹操にとって陳宮は裏切り者です。

三国志の主人公、曹操(そうそう)はどんな人だったのか?子孫や嫁などは?その人生を詳しく解説!:中編その43
陳宮画像引用元:https://sangokushi-fun.com/sangokushi14/bushou-14/data1410673/

ですが曹操は陳宮を捕らえた後、いくつか質問をしています。
「君は余りある知識と知恵がありながら、今のあり様はどうしてなんだ?」
という問いに

「呂布が私の言う事を従ったら、こんなことにはならなかった。しかし裏切ったのは事実。殺されても自業自得だろう。」
と、陳宮はもう覚悟していました。

それに対して曹操は
「君に母親は妻や子供はどうするんだ?」
と、陳宮に尋ねると

「『孝の倫理をもって天下を治める者は人の親を害さず、仁による政治を天下に布く者は人の祭祀を断絶せず』と言われている。私の母や妻たちは、名君の手に委ねるさ。
と言って、自分から処刑場を目指し
「軍法違反なのは明らかだ。だから早く処刑してくれ。」
と走っていったのです。

三国志の主人公、曹操(そうそう)はどんな人だったのか?子孫や嫁などは?その人生を詳しく解説!:中編その44
画像引用元:https://trhorus.exblog.jp/24984377/

曹操は最後の最後まで陳宮を涙ながらに引き止めますが、
陳宮は一度も振り返ることはしませんでした。

その後、陳宮の家族を曹操は処刑などせず、手厚い待遇で迎えたと言われています。
陳宮……

袁紹、対決の空気高まる

44歳ごろの曹操の領土は中華の中央部分に広くまたがって大きな勢力となっていました。
袁術の勢力は呂布や劉備、曹操らに何度も敗戦したので衰退し、
張繡も曹操に再び降伏したことで、周囲では敵なしの状態です。

しかし、そんな中の北方の騎馬隊で有名だった公孫瓚を袁紹が倒し、
北方の領土一帯を支配する巨大勢力に膨れ上がりました。。

この時袁紹は中華で一番天下に近い勢力だったのです。

次に大きな勢力を誇ったのが曹操。
しかも曹操が統治している地域は、黄河を挟んで袁紹のちょうど南側にあたります。
そのため、袁紹との対決が必然となり、両者が対決の準備を始めるのでした。

そんな準備をしている最中に、劉備が曹操に反乱を計画中であるという知らせを聞きます。
袁紹は密かに劉備と同盟組み、曹操の背後を襲うように指示していたのです。

しかし、結局曹操に計画が露見。先手を打たれて劉備軍は散り散りになります。
劉備は袁紹の下に行き、張飛は行方不明、関羽は曹操の捕虜となって、客将として迎えられます。

三国志の主人公、曹操(そうそう)はどんな人だったのか?子孫や嫁などは?その人生を詳しく解説!:中編その46
画像引用元:https://kusanomido.com/study/history/chinese/sangoku/35960/

※この時曹操は劉備の妻たちも捕らえており、
関羽を客将として迎える条件として丁重に扱うように約束します。

三国志の主人公、曹操(そうそう)はどんな人だったのか?子孫や嫁などは?その人生を詳しく解説!:中編その47
画像引用元:https://ebookjapan.yahoo.co.jp/content/etc/103753/kanu/

曹操は約束通り丁重に扱うだけでなく、あくまで関羽が客将でいることを許可。
また、関羽が劉備の居所がわかり次第戻るという、
関羽が高待遇の扱いをしたことは非常に有名な話です。

曹操の生涯その7(44~45歳):曹操vs袁紹、官渡の戦い!

三国志の主人公、曹操(そうそう)はどんな人だったのか?子孫や嫁などは?その人生を詳しく解説!:中編その45
画像引用元:https://pepedash.biz/sangokushi14-scenario4/

三国志でも最大の戦いの一つとして名高い、官渡の戦い。

その戦いは、
曹操軍約4万
袁紹軍約30万~50万

と言われていて、圧倒的な戦力差が伺えます。

この圧倒的数の差を、曹操は戦略と素早い判断力で切り抜け、見事勝利を収めています。

官渡の戦いの勝因

曹操が45歳になったとき官渡の戦いが始まります。
この戦いで曹操は勝つのですが、その要因はなんだのでしょうか?

その理由には、大きく2つあると言われています。

1つ目:兵法家としての差

まず1つ目の要因として上げるのは、曹操と袁紹の兵法家としての差です。

袁紹は名門の出ということもあって、学問にももちろん精通しています。
しかし曹操の場合はどうでしょうか?

実は曹操、かなりの努力家です。

当時兵法の書物に、「孫氏兵法(そんしへいほう)」というものがあります。
その兵法書に曹操は、夜な夜な注釈を入れて自分なり解析してまとめています。
その書物が現在も「魏武注孫氏(ぎぶちゅうそんし)」という書物で現在も残っています。

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画像引用元:https://tinyurl.com/2ljloltv

その他にも様々な兵法書にも同じように中略を入れて研究し、
曹操の自身も兵法の書物を執筆するなどもしているのです。
そうした努力もあり兵法家として、袁紹よりも上だったということがわかります。

2つ目:統率力の差

2つ目は臣下や部下に対しての統率力の差が顕著にあらわれています。

袁紹は面倒見がよく、部下の意見をよく聞きます。
しかし優柔不断な部分が強く、部下の意見を聞いてはころころ意見を変えるなどしていて
まとまりがありません。

三国志の主人公、曹操(そうそう)はどんな人だったのか?子孫や嫁などは?その人生を詳しく解説!:中編その49
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その優柔不断が原因で部下の一人の裏切り行為に繋がり、
その裏切り者が曹操へ、袁紹軍の食料が備蓄している場所を教えてしまいます!
これが決定打になって袁紹が敗北したと言われているのです。

一方曹操の場合、圧倒的な合理主義に徹していました。
部下が提案した内容は誰であれ、
戦局に必ず有利に働く内容であれば適材適所でそれらを採用しています。

そこに利害が絡まないように勝利だけを目標にしていたという記述もあるくらい、
戦局を見極める力があったのだとか。

こうして、官渡の戦いで袁紹軍は敗走。
その後曹操は中華最大勢力となるのでした。

曹操の生涯中編(35~45歳)の筆者の感想

ここまでで曹操の人生が中盤まできました。

戦いに対しては、そんなに多くのことを書かないようにしているので、
その戦いで何が起こったのかはまた別の機会にご紹介したいと思います。

この中編では

「反董卓連合」
「対呂布勢力」
「対袁紹勢力」

の3つが大きな山場がありますが、一番曹操の人間味がよく分かるのが

「陳宮との不思議な関係」

ではないでしょうか。

陳宮はたしかに曹操を裏切りました。
陳宮自身は当初曹操に期待していたのに対し、
曹操の虐殺などを目の当たりにしているので、
気持ちが離れていったのでしょう。

結局陳宮は、最後まで自分の信念は曲げずに処刑されるのですが、
曹操からすれば本心を語った相手であり、
命の恩人でもあり、
ここまで支えてくれた人物です。

だからこそ、いつまでもいてほしかった。

けれども陳宮自身も、
今ここで折れてしまったら他に示しがつかないのをわかっていたので、
自分から処刑されたように思います。

この2人の目に見えない友情が感じられ、
筆者が曹操を語る上で一番好きなエピソードをここで紹介できたのは、
非常にうれしいです!

次は曹操の晩年を描く「後編」です。

「前編」がまだで興味がある人は、そちらもぜひご覧ください!

それではまた!!

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