今回は「孫権(そんけん)」の解説の最後、「後編」です。
「前編」「中編」までの孫権のお話は、主に
『三国志演義(さんごくしえんぎ)』でもよく描かれたお話になります。
つまりは一番孫権が活躍した時期になるということです。
しかし50代からの孫権については…
語ることがそこまで多くありません…
というのも晩年の孫権は、「暴君」と言われ、
それまでの名君主としての評価を著しく下げた行いが多いからと言われています。
また、晩年の孫権は家臣からの信頼がどんどん離れていったこともあり、
次々と反乱が自国領土内で頻発していきます。
そのため結局は領土拡大や大きな戦いも少なく、内乱と後継者問題に追われることになるのです。
内政と魏との戦いに明け暮れる50代
孫権は「劉備(りゅうび)」
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亡き後の「蜀漢(しょくかん)」と再同盟を結び、「魏(ぎ)」との対立を強めていきます。
そこで孫権は、「遼東半島(りょうとうはんとう)」
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に勢力をおく
「公孫淵(こうそんえん)」
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に目をつけます。
公孫淵は呉との取引で馬を供給していました。
公孫淵と協力して、魏を南北で挟み撃ちにしようと考えた孫権は
51歳のころ、贈り物と手紙を書いて使者を送ろうとします。
しかし、これに長年補佐役として付き従ってきた
「張昭(ちょうしょう)」
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や、「夷陵の戦い(いりょうのたたかい)」を指揮した「陸遜(りくそん)」
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たちが、公孫淵を信用してはならないとして止めます。
しかし孫権はそんな反対の意見を振り切ってでも使者を送ることにします。
その後、臣下たちの予想は的中し公孫淵は使者を切り捨て魏に寝返ってしまいます。
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これを聞いた孫権は激怒。
公孫淵討伐をしようとしますが相手ははるか北の遼東半島。
臣下の「薛綜(せつそう)」たちが静止したことで、
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孫権は討伐を思い留めることになるのです。
※長年孫権の補佐役として活躍した張昭は、何度も孫権と言い合いになっています。
特に公孫淵との一件では、張昭の態度が気に入らないと孫権は剣に手をかけるほどだったとか。
張昭は兄「孫策(そんさく)」
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や、母である「呉夫人(ごふじん)」
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の遺言から、孫権や「呉(ご)」のことを考えた上での行動だということを伝えると、
孫権は涙を流したと言われます。
(それでも結局使者を送るんですが…)
孫権にはもう自分の意見は通らないと思った張昭は、病と言って言えに引きこもってしまいます。
その後使者を切られたことを知った孫権は何度も謝罪するため家を訪れますが張昭は家に引きこもったまま。
ついには家の門に火を放って無理やり引きずり出そうとする孫権。
それでも家に引きこもる張昭。
両者の一歩もゆずらない姿勢に、張昭の息子や家臣たちが火を消し、張昭を外に連れ出すと
孫権は深く謝罪したのだとか。
張昭は孫権の謝罪を受け入れて、今まで通り孫権に仕えることになるのですが、孫権の頭に血が上るとどこまでもやってしまうのがわかるエピソードですね…。
ちなみに張昭は孫権が54歳のころに亡くなってしまいます。
50代その1:領土拡大と異民族戦
孫権が52歳のころ。
「諸葛亮(しょかつりょう)」
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の5回目の北伐に合わせて孫権も魏に侵攻を開始します。
諸葛亮は「漢中(かんちゅう)」から北を攻め
孫権は「襄陽(じょうよう)」と「合肥(がっぴ)」、そして「広陵(こうりょう)」の3つを攻めることにします。
魏からすると、4方向からの同時侵攻だったのです。
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襄陽へは「諸葛瑾(しょかつきん)」
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や「陸遜(りくそん)」
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広陵には「孫韶(そんしょう)」
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「張承(ちょうしょう)」
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たちに向かわせます。
一方孫権自身は自ら10万の軍勢を率いて合肥へと向かうのでした。
しかしこの戦いでは魏の武将「満寵(まんちょう)」
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たちが孫権の攻城兵器に十数人の義勇兵を率いて火をかけるなどをしたため、
攻略がうまくいきません。
その他地域を進行していた部隊も思った戦果が上がらず、膠着状態に入ります。
結局は魏軍の増援が向かっていることがわかり、全部隊撤退。
呉軍の敗退となったのです。
諸葛亮も五丈原にて亡くなり、蜀漢も成果を上げられることなく撤退してしまい、
多方面からの侵攻作戦は失敗に終わりました。
この戦いの後、数年間は内政に努めることになっていきます。
※この間に異民族の討伐を孫権は行っています。
派遣したのは
諸葛瑾の息子、「諸葛恪(しょかつかく)」
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たちです。
特に諸葛恪は諸葛瑾亡き後や孫権が亡くなった後、
呉で多大な影響力を持つようになり、このころから異民族討伐などで着々と功績を遺していきます。
この異民族討伐は3年間にも及び、異民族は降伏。
異民族たちは呉の領民になったことで兵力が増強していきます。
50代その2:公孫淵滅亡
孫権が56歳になるころ。
公孫淵から救援要請がきます。
この頃公孫淵は魏との外交により将軍官位をもらう一方で、
呉とも交易をして「燕王(えんおう)」に報じられるなど、二枚舌外交をしていました。
さらには呉の使者を斬り殺し、その首を魏に送り、
この功績で「大司馬(だいしば)」の官位を与えられていました。
こうした公孫淵でしたが魏が不信感を覚えて攻め、交戦状態となってしまうのです。
呉に救援要請したのもこのころでした。
当然孫権の家臣たちは猛反発。
使者を斬り殺されたことを忘れてはいません。
そんな中、家臣の「羊衜(ようどう)」
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は救援に応えるべきと提案します。
この提案に孫権は了承し、羊衜たちを援軍として派遣するのです。
※孫権が公孫淵の救援を断らなかったのは、
魏と対抗するために必要なことだと思ったからではないでしょうか。
この時にはすでに蜀の戦力も諸葛亮がおらず、
連携して4方向から攻めるも、大きな成果は得られませんでした。
そのため今後のことを考えたら、魏の兵力分散のためにも公孫淵を味方につけたいと考えたと思われます。
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しかし、援軍を送っている最中に公孫淵が討たれ、その一族もすべて斬首に処されてしまいます。
(この斬首は公孫の一族だけでなく、その家臣たちも含まれていて、6000人もの首が山積みになったのだとか…)
到着した援軍部隊は、魏の「張特(ちょうとく)」たちと交戦。
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魏の諸将たちを破って捕虜を取って帰国することになります。
しかしこの戦いから数年後、
孫権が59歳になったころ。
呉の皇太子で長男だった「孫登(そんとう)」
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が、わずか33歳で死去します。
孫登は父孫権にも意見を真向から言うほど度量があり、
諸葛恪や「張休(ちょうきゅう:張昭の息子)」
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などとも寝食を共にするほど仲が良く、次世代の呉の中心人物になるはずだった人物です。
孫権も大きな期待をしていた中での急死だっただけに、
孫権やその家臣たちの悲しみはとてつもなく大きなものでした。
ここから呉や孫権自身の歯車が大きく狂い始めていくのです。
※同じ年に長年の忠臣だった諸葛瑾も亡くなります。
この年は孫権にとって最愛の息子を亡くしたばかりか、
家臣の中でも最も信頼を寄せていた諸葛瑾も亡くなり、失意のどん底だったのでしょう。
さらに補佐として活躍していた張昭も亡くなったことから、
孫権に対して意見する者がいなくなっていったことが、
この後の後継者争いが激化していくことになるのです。
後継者問題に明け暮れる晩年
孫権が60歳になるころ。
皇太子となったのは三男の「孫和(そんか)」でした。
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しかし同じころに四男の「孫覇(そんは)」
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に「魯王(ろおう)」の位を授け、孫和と同じ待遇にしてしまいます。
これによって、孫和派と孫覇派で臣下も別れて対立するようになり、争い合うようになります。
※孫権がなぜこのような行動をとったのか。
それは、孫登が亡くなった時に孫登の遺言により孫和を後継者に選んだのですが、
同時に孫権自身がかわいがっていた孫覇に何か位を授けたいという思惑もあったと思われます。
家臣からほぼ同様の扱いをすることはいかがなものかと言われ、
孫和、孫覇それぞれに宮を立てて幕僚を構える形となり、
さらに両者の対立が激化していくのです。
晩年その1:対立する後継者
孫和派には、皇太子という位や孫登の代に親しくしていた家臣は
陸遜
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諸葛恪
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張休など
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が主な代表格でした。
孫覇派には、孫権が王の位を与えるほどの人物ということで
「全琮(ぜんそう)」
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「歩騭(ほしつ)」
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「孫峻(そんしゅん)」
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などが代表格でした。
この対立した跡継ぎ問題を
「二宮の変(にきゅうのへん)」と言うようになります。
※対立構造の裏には、孫和・孫覇の親族関係の不仲も原因と言われています。
孫和は「王夫人(おうふじん」の子供として生まれ、
その王夫人と仲が悪かったのが、孫和の姉、「孫魯班(そんろはん)」でした。
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(孫魯班の母親は「歩夫人(ほふじん)」で、孫和とは別の母親。)
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この時皇后の位に上がる孫権の妻がいなかったことで、一時期孫和の母、
王夫人が皇后に上がる可能性が高かったのです。
孫魯班はそんな王夫人を皇后にしないよう活動。
その活動もあってか、王夫人は皇后にはなれなくなります。
孫魯班はいずれこのことを孫和は恨むだろうと思って、
孫覇派につくことになり、対立は激化していくことに…
対立構造となってしまった孫権の跡継ぎ問題ですが、
次第に皇太子である孫和派が劣勢になり、廃立の声が高まります。
呉に長く仕えていた陸遜は、この事態を沈静化しようとして孫権に
「正妻と側室の子供を区別しばければいけません!」
と孫権に直談判をします。
(孫和は正室の子供で、孫覇は側室の子供です。)
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しかしこのことに怒った孫権は、陸遜を追放。
さらに孫和派にいた張休なども左遷させられてしまうのです。
この後、陸遜は失意のうちに亡くなったとされています。
※陸遜に対してことの時の孫権は、何度も手紙で
「お前に責任がある!」
という内容を何度も送っています。
長年仕えた陸遜も、このことで心労が募り、ストレスで亡くなってしまうのです。
さらに「楊竺(ようじく)」
という人物が、陸遜がどんなにひどいことをしてきたか吹聴していたため、
見に覚えのない罪まで濡れ衣を着せられていました。
陸遜死後、陸遜の子供である「陸抗(りくこう)」
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により、父の汚名をすべて晴らすよう活動。
このことで楊竺は処刑され、孫権は泣いて謝罪したといいます。
この時期から徐々に呉の臣下たちの心は少しずつ孫権から離れており、
子の孫魯班らの影響力が強くなっていきます。
晩年その2:後継者の決定
孫覇派がこれで優勢となったのも束の間、
孫権が65歳のころに、丞相の位まで上り詰めた孫覇派の歩騭が亡くなります。
更に孫魯班の旦那であり大司馬の位になっていた全琮が、その2年後に亡くなってしまいました。
これにより、再び孫和派が活性化。
孫覇派との対立がまたまた激化し、勢力争いも再び拮抗していきました。
すでに跡継ぎの争いが7年も続いており、いい加減に嫌気がさしてきた孫権。
その心労からか、末っ子の
「孫亮(そんりょう)」を可愛がるようになっていきます。
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孫権が68歳になるころ。
ついに孫権は後継者を正式に決めることにします。
正式に決めたのは、ずいぶんとかわいがっていた
末っ子の孫亮!
新しく後継者を決めたことで、孫和、孫覇の両名を排することも決定します。
孫和は幽閉され、これに反対したものは処刑、あるいは流罪とされ、
無実の者も同時に処されたのだとか。
そして孫覇も死を賜ることとなり、(実質処刑)
孫覇派の工作に走っていった者らも誅殺されることになります。
こうして一段落ついた後継者問題でしたが、この長年の争いによって呉の治安は悪化。
さらには国力を弱めることに繋がった上、その後も跡継ぎ問題が発生していきます。
そんな国力が低下した2年後、孫権は70歳でその生涯を閉じるのでした。
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