【三国志】呉の君主、「孫権」ってどんな人?本当に暴君だった?その生涯を徹底解説!!:中編

【三国志】呉の君主、「孫権」ってどんな人?本当に暴君だった?その生涯を徹底解説!!中編アイキャッチ用画像呉の武将

今回は「孫権(そんけん)」の紹介中編です!!

「前編」では、父・兄が築き上げた領土や実績、2人の死を乗り越えた孫権が、自分の領土を再平定することや、仇敵との因縁の戦いの決着、そして赤壁の戦いという、まだまだ激動の混乱期が続く時代のお話でした。

そんな孫権は強大な勢力となった「曹操(そうそう)」との長い戦いが始まっていくのでした。

領土拡大に邁進する30代(前編)

孫劉同盟が締結し、巴蜀の地へと赴いた劉備に対し、孫権はいよいよ曹操軍との戦いに備えていきます。

孫権が30歳のころ。

拠点を「呉(ご)」から「建業(けんぎょう:現在の南京辺り)」へ遷都し、

「石頭城(せきとうじょう)」を作って対曹操軍への拠点とします。

当時は「曹操(そうそう)」

が、中華で最大の勢力であり、
曹操に対抗するためにも、孫権も大きな領土と軍事力を保有する必要があったのです。

そんな曹操軍が「赤壁の戦い(せきへきのたたかい)」の後、始めて大部隊を率いて「濡須(じゅす)」という場所に進軍してきます。

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その数約40万人

指揮をとっていたのは曹操本人です。

対して孫権軍は、水軍には自信があるとは言え、7万ほどしかおりません。

そこで、孫権は「劉備(りゅうび)」

に援軍を要請します。

しかし劉備は同盟関係にある孫権に援軍は送らず、「益州侵攻(えきしゅうしんこう)」
をしたため、孫権は軍の総指揮を自らとり、単独で曹操軍と対峙することにしたのです。

30代前半その1:長江流域での激戦

曹操軍は水軍を率いて進軍を開始したのですが、孫権軍に逆に包囲される形で各個撃破され、
曹操軍の被害は数千人にも及び敗走。

曹操軍は対岸に布陣して何度も攻め込むも、守りの固い孫権軍を降すことができずに、
軍を撤収したのです。

こうして一回目の「濡須口の戦い(じゅすこうのたたかい)」では、孫権側が守りきったのです。

※この戦いで孫権は曹操軍の陣営に強行侵入しています。

味方を鼓舞しながら戦い、孫権の布陣が乱れることなく戦う様を曹操は見て思わず、

「息子を持つなら孫権のような息子がいいな。」

と感嘆したと言われています。

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この戦いの後、曹操は長江流域の支配権が孫権に移るのを危惧し、長江周辺の住民たちを北方へと強制移住させようとします。

しかし住民のほとんどがこれを拒否。

逆に長江の川を渡って十数万の人々が孫権へ亡命していきます。

このことを受けて曹操は、「廬江太守(ろこうたいしゅ)」
「朱光(しゅこう)」

を派遣。

周辺を開拓して孫権への不平をもった住民を魏へ誘い込み、内通者としても育てようと企みます。

孫権が32歳になるころ

長江流域の状況が曹操の計略にさらされるのを恐れ、

「呂蒙(りょもう)」

「甘寧(かんねい)」

などを引き連れて曹操領内に侵入。

廬江太守とされた朱光や数万人の男女を捕虜にすることに成功します。

一方曹操軍も援軍として「張遼(ちょうりょう)」

を送りますが間に合わず、退却を余儀なくされます。

同年には曹操が再度10万人規模の軍を率いて濡須口周辺を侵攻。

これに対して孫権陣営は甘寧がたった100人ほどで夜襲をかけるなどの奇策で撃退。

曹操は大きな戦果がなく撤退する形となったのです。

※甘寧の100人ほどで敵陣営に強襲した逸話は、伝記によって時期がバラバラのため、Wikipediaを参照してこの時期に行ったものとしています。

甘寧が100人ほどで切り込んで行った際には、孫権はその武勇を褒め称え、

「あのじじい(曹操)は仰天していたかな?お前の度胸を見られたぞ!」

と言って、手勢を2000人に加えたと言われます。

さらに、「曹操には張遼がいるが、オレには甘寧がいる、うまく釣り合っているものだな。」

と、甘寧は曹操軍の猛将、張遼と同格の人物だと評価しています。

それほど甘寧の働きぶりが凄まじかったのがわかりますね。

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30代前半その2:劉備との溝

ちょうど濡須口で曹操軍と戦いを繰り広げていた時、劉備はついに「益州の地(はしょくのち)」
を得ることができます。

このことによって孫権は「荊州(けいしゅう)」の劉備に貸し出している3つの地域、

「長沙(ちょうさ)」「桂陽(けいよう)」「零陵(れいりょう)」

の3つを変換してほしいと打診します。

しかし劉備からは

「涼州(りょうしゅう)」

を手に入れてから荊州の全域をお返ししますと返事がきました。

つまりはそれまで荊州を借りる期間を延長したいと言っているのです。

元々は孫権軍のおかげで荊州の地の平定、貸出、巴蜀の地の領土拡大などが出来たのに加え、援軍要請も断っている劉備に対して不信感が出てきてもおかしくありません。

そこで孫権は長沙・桂陽・零陵の3つの地域に役人を送り込んで行政的な支配を試みますが、全て追い返されます。

それに怒った孫権は軍を送り込んで3つの地域を実行支配していき、このことを知った劉備も軍を派遣。

孫権と劉備の全面戦争か!?

と思ったところ曹操軍が漢中に侵攻をしたのを受け、劉備が孫権に和解を申し入れます。

江夏・長沙・桂陽の3つの地域の領有権を認め、その後荊州の他の地域も徐々に返還することを約束して和解。

これに孫権も応じて同盟関係が継続する形となったのです。

しかし両者の溝はこの時さらに深まったと言えるのでした。

30代前半その3:合肥の戦い

劉備と全面戦争に発展しそうになったのと同じ年。

今度は孫権が曹操に侵攻を開始。

「合肥(がっぴ)」へと軍を出します。

孫権軍はこの時に10万人の大軍を率いており、対して合肥には7000人ほどしか防衛にいませんでした。

さらに曹操軍側がこの場所の守りに配置していたのが、

「張遼(ちょうりょう)」

「楽進(がくしん)」

「李典(りてん)」

と言った曹操軍を代表する武将たちでした。

※実はこの3人、それぞれ仲が悪かったことで有名です。

李典はその当時の豪族出身であり、曹操軍加入時から出世していきます。

現代風に言えばエリート一家の家柄からの出世街道まっしぐらな人物。

楽進は一兵卒からの典型的な叩き上げ武将。

記録係りから始まって、武功をコツコツと積み重ねて今の地位を築いた人物です。

お互いに曹操軍でも最古参の武将ですが、出自の違いからの嫉妬などもあったのかもしれません。

一方張遼は元々「董卓(とうたく)」

「呂布(りょふ)」

に仕えていた人物です。

李典は張遼の元上司だった呂布にその一族を殺されています。

このことから李典は張遼に何かしらの恨みはあったかもしれません。

楽進と張遼も、性格の相性の悪さによってお互い相性が悪かったようです。

お互いいがみあって、協力して孫権軍に対処しなければならないけれど歩調があいません。

こうした不仲な3人の仲を取り持ったのが

「趙儼(ちょうげん)」

という武将でした。

彼のおかげで3人は協力して孫権と対峙することになります。

(趙儼はこの後も一癖も二癖もある曹操軍の武将たちを、たびたび調整役として活躍することになります。趙儼すごい…)

10万もの軍勢で合肥を攻めた孫権でしたが、張遼が800人ほどで奇襲。

これで勢いを削がれた孫権は、合肥の城を囲むも中々攻め落とせません。

すると孫権軍の中で疫病が発生。
疫病が蔓延していき、戦どころではなくなってしまったのです。

孫権は退却を決意して、自ら再後衛にまわって指揮をとり、撤退をしていきます。
これに曹操軍は追撃をかけ、孫権の身も危うくなってしまいます。

そこで甘寧や「凌統(りょうとう)」

らが時間稼ぎに残り、死にものぐるいで防戦。
孫権は大勢の兵を失いながらもなんとか帰還。

最後まで残った凌統らも配下の多数を失いながらも生還します。
こうして多大な犠牲を払いながらも合肥での戦いは幕をおろしたのです。

※この戦いでは甘寧と凌統の協力が非常に有名です。

凌統は父親、「凌操(りょうそう)」

を、甘寧がまだ劉表配下の時代に殺されています。
当然その恨みは消えておらず、ずっと憎んでいたようです。

しかしこのときは互いにそのことを忘れて共同で防戦し、生還したときは孫権も狂喜したといいます。

この戦いの後、甘寧は病に倒れてなくなってしまいます。

孫権劉備の対立と皇帝即位の30代後半

孫権が34歳になったころ。

再び濡須口で曹操軍との戦いがはじまりました。

曹操軍は10万もの大軍。しかも曹操軍は「山越異民族(さんえついみんぞく)」にも反乱を仰ぐことで孫権の背後も突くという、孫権からすれば危うい状況となったのです。。

孫権は前方の曹操軍に対応しながら、後方の異民族には

「賀斉(がせい)」

「陸遜(りくそん)」

の両名に討伐を任命します。

結果的には異民族も首領を討伐したことで、異民族数万人を領民にすることで、
孫権軍は兵力を増加することに成功します。

毎年のように曹操軍との戦いをする孫権でしたが、結果として大きな戦果を挙げられないことや領内が安定していないことなどを受けて、方針転換を余儀なくされるのです。

30代後編その1:孫劉同盟決裂

孫権が35歳になったころ。

濡須口に攻めてきた曹操軍に対し、孫権は自ら水軍を率い

呂蒙や「蒋欽(しょうきん)」

らと防衛。曹操はまた攻めきれずに曹操軍を敗走させることに成功します。

しかし曹操軍との戦いは、8年も続いているのに対して大きな成果が得られていません。

このままでは家臣の不満が高まることも考え、曹操に休戦を要求します。

曹操軍はこの休戦を了承し、しばらくは領内の治安回復などに努めることになるのです。

※この帰還中に孫権は曹操に対し「帝位に就かれてはいかがでしょう?」という手紙を送っています。

この手紙に曹操は

「この小僧、跪いてみせながらわしを囲炉裏の炭の上に据えようというのか!」

と言ったのだとか。

これは孫権が皇帝を勧める理由は、「皇帝に就いてほしい。」

という理由ではなく、「皇帝に就くことで全中華の諸将や名士たちから反感を買うだろう。」

と思ってわざと挑発しているのです。

曹操もさすがにこの挑発にはのりませんよね。

孫権が37歳のころ。

ついに劉備と曹操の戦いが始まり、見事劉備軍が勝利
「漢中(かんちゅう)」を得ることに成功します。

さらに曹操は「魏王(ぎおう)」になったことに対抗し、劉備も「漢中王(かんちゅうおう)」を自称します。

こうした動きに孫権は、劉備にそろそろ劉備軍で荊州の守りについている、

「関羽(かんう)」

に、孫権の息子と関羽の娘の婚姻をしないかという提案をします。
この提案に関羽は

「うちの娘とお前のようなやつの息子とでは不釣り合いだ。お断りする。」

と断ります。

関羽はこの時、荊州から北上して曹操軍へ攻勢をしかけ、
「曹仁(そうじん)」

が籠城している城へ水攻めを行っていました。

しかし兵糧が足りないために、孫権軍の領土から無断で兵糧を奪っていたのです。
しかも荊州の領土問題でも君主の劉備との間でも長年のいさかいがあったため、ついに孫権は激怒

荊州の南部一帯の領有権を条件に曹操と手を組んで関羽を後方から攻撃することになります。
こうして孫権は関羽に呂蒙や「朱然(しゅぜん)」などを派遣。

関羽がいない荊州を攻めたことで、関羽の居城は落城します。

このことに関羽は気づいて引き返しますが、すでに関羽を呂蒙たちは包囲していました。
そうして関羽を捕らえて首を跳ね、その首を曹操の下に送ります。

関羽を処刑したことで荊州のほとんどを孫権は領有し、領土を大きく広げることに成功したのです。

※関羽を討ち取った際に陸遜から

「諸葛瑾は諸葛亮と兄弟ですよね。秘密裏に裏で繋がってはいないでしょうか?」
と、孫権は相談を持ちかけられます。

家臣の者からすれば、疑っても仕方ありません。

しかし、孫権は
「私が諸葛瑾を裏切らないように、彼も私を裏切りはしないよ。陸遜、君にもそのことを信じてほしい。」
と返したと言います。

「前編」

「赤壁の戦い(せきへきのたたかい)」後の諸葛瑾とのやりとりで絶大な信頼関係を作った両者。
こうした家臣との信頼関係を築ける力があることで、孫権の人柄がよく分かりますね。

30代後編その2:三国成立と夷陵の戦い

古くからの忠臣だった関羽を失った劉備は怒り、完全に同盟関係が決裂することになりました。

そんな中、孫権が38歳のころ。
ついに曹操が亡くなってしまいます。

その後、息子の「曹丕(そうひ)」

が跡を継ぐことになり、孫権は使者を送って曹丕と良好な関係を築こうとします。

しかし曹丕は曹操の跡をついですぐに「献帝(けんてい)」から「禅譲(ぜんじょう:自分の地位を誰かに譲ること)」され、

「魏の初代皇帝(ぎのしょだいこうてい)」に就つことになります。

このことに劉備は反発し、正式な漢の後継として、「蜀漢(しょくかん)」を作り、
劉備自身が初代皇帝を宣言します。

一方孫権は当初、曹丕の皇帝即位を支持します。

支持したことを聞いた曹丕は、「呉王(ごおう)」として孫権を任命したのです。
これに孫権の家臣は反対しますが、孫権は呉王の爵位を受けとります。

こうして名実ともに魏国の臣下となった孫権…

かのように見えましたが、孫権はこれを利用して北からの魏の侵攻の心配が亡くなり、関羽を倒したことで起こる劉備との戦いに注力したのです。

※孫権はこの時、心から魏の配下になると思っていません。

あくまで今後の展開を有利にするために、戦略的に考えての対応だったのです。

その証拠に、孫権は魏の内情を探ろうと使者を派遣しています。

内情を調査したところ、魏は盟約を守らない可能性が高いことを知り、独立することも考えています。

孫権が40歳の頃、ついに劉備軍が侵攻を開始しますが、これを陸遜らの臣下らが対応。

見事勝利します。

その後追撃部隊を送るように家臣から進言されますが、これを拒否。

理由としては、魏が援軍と称して荊州に進軍を開始していることがわかったためです。
夷陵の戦いで指揮を執った陸遜も同意見であり、魏に対しての不信感から慎重な姿勢をとったのです。

その後、劉備から和睦の使者が到着。
孫権はその和睦に応じて蜀と再び同盟を結びます。

このことに曹丕は怒りますが、孫権は対魏防衛のための陣を作り、徹底抗戦の構えをみせます。

こうして魏との同盟を破棄したのです。

※魏との同盟よりも蜀との同盟を優先したのは、劉備の手紙も関係していると言われています。

その手紙には、今までのころを深く反省し謝罪した内容だったのです。

また劉備からの使者から天下三分の重要性や、魏の不信感なども合わさったこと。

兼ねてから荊州の領土を得るという目的も達成していることなど、複数の要因が合わさった結果だと思われます。

そんな劉備は翌年、病によって亡くなることになります。

こうして、魏・呉・蜀の3つ勢力がせめぎ合う、三国の構造が出来上がったのでした。

皇帝に即位する40代

曹丕は「曹休(そうきゅう)」

に命じて、張遼や「臧覇(ぞうは)」

たち26軍を「洞口(どうこう)」に出撃させ、

「曹仁(そうじん)」

「蔣済(しょうせい)」

らに、濡須口へ進軍、

さらに「曹真(そうしん)」

「夏侯尚(かこうしょう)」

らに「江陵(こうりょう)」を攻撃するよう命じます。

つまり、3方向から魏軍が攻めてきたのです。

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孫権はこれらに対抗するため、全体指揮をとって対抗します。

「呂範(りょはん)」の部隊が洞口に対応し

「朱桓(しゅかん)」の部隊が濡須口を守ります。

さらに江陵開栓後間もなく包囲されてしまいますが、
半年の間「朱然(しゅぜん)」が守りきり、

「諸葛瑾(しょかつきん)」

らの援軍を期に魏軍は退却します。

この戦いで魏軍は多くの戦死者を出し総退却をしますが、その退却の際にも呉軍は追撃、より魏軍は被害が甚大となります。

この期に孫権は賀斉を魏領に攻め込み、「蘄春郡(きしゅんけん)」という地域を奪うことに成功。

この戦いで呉軍は見事勝利するのです。

40代その1:魏との戦いと反乱の平定

孫権が42歳のころ。

曹丕が「広陵(こうりょう)」

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に攻めて来ますがこれを「徐盛(じょせい)」

たちの活躍により迎撃します。

翌年の43歳のころには、南の領土で士燮が反乱しますが、この反乱をすぐに鎮圧します。

そしてこの年に孫権は荊州北部の

「襄陽(じょうよう)」「江夏(こうか)」

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の2箇所を攻めます。

襄陽を攻め落とす役割を担った諸葛瑾でしたが、その防衛に当たった

「司馬懿(しばい)」

によって敗れてしまいます。

襄陽への侵攻は失敗しますが、孫権自ら率いた江夏の侵攻作戦は成功。
江夏の領土を得ることができ、荊州方面の領土が広がっていきます。

孫権が46歳の頃に孫権配下の
「周魴(しゅうほう)」

が魏に投降すると伝え、「石亭(せきてい)」にて魏の曹休を迎えに来させようとします。

さらに司馬懿たちによって江陵を攻撃する魏軍。
しかしこの投降は嘘の投降で、この誘いに乗った曹休は呉に大敗し、

司馬懿たちも攻め落とすことができません。

再度魏の武将の「満寵(まんちょう)」たち

が江陵を攻めますが、結局落とせずに退却していってしまいます。
こうして蜀との同盟後に孫権は幾度も魏軍の侵攻から守り、
さらには領土を拡大することにも成功していくことにも成功。

着々と呉の地盤は強固になっていくのです。

40代その2:皇帝即位

47歳の頃の孫権は、数々の魏の侵攻だけでなく、領土も拡大して反乱も落ち着いたことから、
孫権は自ら皇帝に即位すると宣言します。

「呉」という国の初代帝位になったのです。

この皇帝即位に蜀は帝位を認め、呉に対して
「二帝並尊(にていへいそん)」を提案します。

この提案を孫権は承諾し、同盟を強固にしたのです。

※二帝並尊とは中華に同格の皇帝を2つ作り、分割して中華を統治することです。

このときは「呉」「蜀」ですね。

この時の案として、蜀が中華の西側、呉が東側を統治する内容でした。

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この盟約によって、蜀と呉が争うことなく対魏へと集中することになるのです。

その後孫権は「夷洲(いしゅう:今の台湾地域)と「亶洲(せんしゅう:今の海南島あたり)」

の開拓に乗り出します。

探索隊を出しますが、亶洲は遠すぎたことで兵士の9割が疫病などで亡くなってしまいます。

そのため、夷州の現地住民を数千人連れ帰ったという成果が上がり、南の島々への開拓を図ろうとしていくのです。
またこの期間にも魏との攻防は続き、孫権は自身の手で領土防衛や財政改革などをしていくことになります。

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