今回は正史「三国志」の筆者でもある、
「陳寿(ちんじゅ)」
についてご紹介します!
陳寿が正史「三国志」を書かなければ、
後の「三国志演義」や、
横山光輝氏が書いた、漫画三国志も、
コーエーテクモさんが作る「三國無双シリーズ」「三国志シリーズ」など、
日本にも伝わらなかった可能性がある超重要人物です!
そんな陳寿ですが、
実は「親不孝者」とよばれたり、
職につけずにふらふらしていた時期があったり、
客観的な歴史をかけていない
などなどいろんな噂があるので、その辺を詳しく見ていきましょう!
陳寿の簡単プロフィール
名前:陳寿 字(あざな)は「承祚(しょうそ)」
出身:中国 益州巴西郡安漢県出身(現在の四川省 南充市辺り)
生年:西暦 233年
没年:西暦 297年 享年64歳
陳寿の生涯その1(0~30歳):苦難の蜀漢生まれ
生まれた場所がまだ蜀漢と言われていた時代、魏と争っていた時代に誕生しました。
ちょうど陳寿が生まれる2年前には諸葛亮(しょかつりょう)が4回目の北伐を実施し、
司馬懿(しばい)とバチバチ争っていた時です。
生まれた翌年、陳寿が1歳になるかならないかの時に5回目の北伐が始まります。
そう、この5回目の戦いは後に五丈原の戦いとも言われるようになり、
諸葛亮が亡くなることになる年なのです。
諸葛亮が亡くなったことで多少なりとも蜀は荒れることになりますが、
後継者の蔣琬(しょうえん)を中心に次第に国は安定していくという、
本当に激動の時代に生まれているわけですね。
陳寿はそんな時代の蜀の中で学問が大好きで、
「譙周(しょうしゅう)」という蜀の役人に弟子入りをします。
※この譙周という人物も蜀の中でも身長がかなり高く誠実で頭脳明晰な人物だったとか。
特に身重にいたっては八尺もあり、今でいうところの240cmも身重があったのだとか!
(実はこの時代にも八尺様がいたとは…)
ただ不意な質問にうまく答えるような機転の効く人ではなかったのだとか。
その後陳寿に儒学や史学を学ばせ、陳寿はそのまま蜀漢に仕えることになります。
仕えたのは諸葛亮の息子の「諸葛瞻(しょかつせん)」。
役職は主簿(今で言う帳簿係などの事務員)というもので、
その役職の後は宮中文庫の管理者にまで出世します。
ただ、この後に事件が起きます。
陳寿が役人として順調に功績を積んでいる最中、父親が亡くなったのです。
陳寿は父親が亡くなったことで喪に服すのですが、
その最中に自分も病にかかってしまいます。
そこで陳寿は下女に薬を作ってもらい服用。
しかしその姿を見た村人に親不孝者と罵られ、故郷から半ば追放されるようになってしまいます。
※「なぜ薬を飲んだだけで追放になるの??」
と思うかもしれませんが、実は儒教では、
親が死んだら飲み食いもせずに痩せ細って杖なしではいられないくらいに嘆き悲しむのが一般的、自分の身を労るなんてもってのほか!!
という教えがあり、それに違反したので陳寿は批判されたのです。
陳寿は儒学を収めていたので、
その知識があるにも関わらずにそのような行いをしたため余計に批判され、
「親不孝者」とされてしまったのです!
こうして、陳寿の人生で1つ目の大きな不幸が訪れることになったのでした。
陳寿の生涯その2(30~45歳):苦難の中年期から出世街道へ
故郷から半ば追放の形となった陳寿でしたが、まだ不幸ははじまったばかりでした。
陳寿が31歳のころ、蜀漢が滅亡します。
つまり、自分の就職先が倒産したようなものです。
陳寿は父親を失い、故郷を失い、仕事を失ったことで、途方にくれたことでしょう。
この時期からしばらく放浪したとも、都に行って士官できないかあれこれ模索したとも言われていますが、「親不孝者」というレッテルを貼られたことなども相まって、友人や元仕事仲間にツテがないか伺っても中々仕事が見つかりません。
なかなか芽が出ない日々が続いたある日、同門であり同僚でもある、「羅憲(らけん)」に再開します。
羅憲は蜀が滅んだ後、呉との通り道があった場所である「永安(えいあん)」を、
呉の侵攻から守りきったことで褒め称えられ、
魏に仕えた後に普に変わっても、武将として仕える形となっていました。
そんな羅憲が普に仕えるよう陳寿を推薦してくれ、ようやく仕事にありつけたのでした。
この時期の陳寿は読み書きができる上に文才もあるということで、たくさんの役人からその能力の高さを評価されました!
特にその才能に目をつけたのが「張華(ちょうか)」という、普の朝廷内でも有力な人物でした。
政治家でもある張華に
「あ、こいついいね!」
と気に入られ、その後重宝されることになります。
張華の推薦によって、治書侍御史、兼中書侍郎・領著作郎と、
次々官職を歴任、順調に出生していくことになるのです。
さらに自分の出身地である益州の地方史をまとめたり、諸葛亮の書籍を編纂したりなど、
自身が手掛けたものが高く評価され、功績を残していきます。
陳寿の生涯その3(45~65歳):三国志の執筆とやらかしの晩年期
陳寿が47歳のころ、ついに普が呉を滅ぼして三国時代が終わります。
激動の時代が終わり、陳寿はそれまでの歴史を記すよう言われ、歴史書を作ることになります。
それが後の世にもいろんな題材として重宝されることになった、
「三国志」
だったのです。
出来上がった書物を読んだ張華は、その出来栄えに
「『普書』はこの本の後に続けるべきであろうな」
と称賛したのだとか。
つまりは普の歴史書も陳寿にやってほしいということでもあります。
しかし、そんな順調そのものの陳寿に、またもや事件が起きるのです。
今度は陳寿の母親が洛陽で亡くなってしまいました。
(このことから陳寿は母親と一緒に暮らしていた可能性があります。)
陳寿はこの時しっかりと喪に服したようで、
父親の時の二の舞いにはならなかったのですが、
残念ながら事件はその直後におきるのでした。
母親を埋葬する際、母親の遺言で「洛陽で埋葬してほしい」とのことから、
その遺言通りにしました。
しかしこれがいけなかった!
これもまた儒教の教えで、故郷の墳墓に埋葬するという教えに反していたのです。
またもやまたもや『親不孝者』として非難される陳寿!!
しかも今回は官職から外される罰も受けることにもなりました。
そして、さらにさらに不幸は続きます。
「荀勗(じゅんきょく)」という張華と同じ普の政治家が、
「『三国志』の中にある「魏志」の部分が気に入らない!」
と行って地方に左遷されることになります。
実はこれは口実で、政敵に当たる張華の派閥に陳寿が入っていたため、左遷しようとしたのだとか。
※この荀勗は、魏の時代の「曹操(そうそう)」を支える名軍師、「荀彧(じゅんいく)」の同族に当たります。
家柄も非常に良い一族の出ではあるものの、政敵への「讒言(ざんげん:告げ口やありもしない悪口。)」や「傲慢(ごうまん)」な態度が目立った人物だったと言われています。
そんなやっかいな人物に目をつけられた陳寿ですが、
ことの経緯を聞いた「杜預(どよ:呉の征伐を成功させた将軍)」という人物から、
「さすがにそれは陳寿がかわいそうすぎるだろ。」
として、検察秘書官にあたる役職に任命され、首の皮一つ繋がったのでした。
こういった騒動から結局普の国の歴史書『普書』には任命されず、
晩年には、「恵帝(けいてい)」にその才能を認められ、張華からも官職にまたつかないかと推薦されたほどっでしたが、
結局その役職に就くことはなく65歳で亡くなったのでした。
陳寿の残念ポイント3選!
陳寿はその生涯、順調な出世街道とおもいきや、かなり残念な部分がある人でした。
そこで他の逸話も交えて、陳寿の残念ポイントを3つ上げていきます。
・残念ポイントその①:礼節よりも学問命!
先にも述べたように、陳寿は学問が大好き!
この時代の礼節でもある儒教を、儒学として学んでいます。
しかし、せっかく学んだ儒学を実際に活かしきれていないのが残念!
今の時代の風習からすれば、「なんでそんなことで?」と疑問に思う、親不孝者エピソード。
でも当時のマナーなども儒学の中に入っていると考えれば、
それを知っていてなお破っているのなら、そりゃ批判されてもしょうがありません。
自分の両親を最後まで面倒みているのはとても立派なのですが、
そのやり方で自分の首を締めてばかりなのはとっても残念だなぁと思います。
・残念ポイントその②:公平な歴史書を作っているわけじゃない
『三国志』の作者でもある陳寿は、歴史家でもあるので、いろんな文献や人物に、
「あの人はどんな人だった?」
と、調査したことでしょう。
その中でも自身が関わった人物、特に嫌いな人にはしっかりと
「実はこの人〇〇だったんだよね。」
という記述も残しています。
その例として、諸葛亮の息子、諸葛瞻とのエピソードです。
若い頃諸葛瞻の下で事務として働いていた陳寿。
その時に諸葛瞻から侮辱されたことから
「家柄だけで実がない人物」
として評価しています。
その父親の諸葛亮にも
「臨機応変に軍を進退させるだけの戦の才能には乏しかった。」
とあります。
※陳寿の父親は蜀対魏の一回目の北伐に従軍しており、馬謖(ばしょく)の軍に所属していました。
馬謖は「泣いて馬謖を斬る」の言葉にもなった、諸葛亮の弟子です。
結果的には馬謖が諸葛亮の言いつけを破って負けてしまい、馬謖は処刑されることになります。
もちろんその部下たちもお咎めなしとはいかず、陳寿の父親も髪の毛を剃る刑罰にあっています。
こういったマイナス面を書く前には、実績や良い部分を書いるのですが、書いているその本は歴史書。
公平な立場ではなく、何かしらの私念ももしかしたらあったのではないでしょうか。
・残念ポイントその③:気に入らない相手に容赦しない
陳寿が蜀漢につかえていた時、「李驤(りじょう)」という
同門の先輩でとっても中が良かった人物がいました。
父親は「李福(りふく)」という、蜀漢に仕えている役人です。
ただ、蜀漢が滅んだあとくらいに些細なことから(詳細は不明)喧嘩。
その後に李驤が普に支えようとしたところ、陳寿が妨害したと言われています。
しかも『三国志』にも登場させないほどの徹底ぶり。
何度も士官しようとしても妨害されたようで、李驤は故郷に戻って生涯を終えたとのこと。
このことから、一度嫌いになった人物は何年たっても恨みは消えない
そういった人物であるということがわかると思われます。
陳寿が日本に及ぼした意外な功績
陳寿は自国の普だけでなく、日本についても大きな功績をこの頃残しているのです。
それが「魏志倭人伝(ぎしわじんでん)」
実はこの『魏志』は、『三国志』の中にある一つの項目であり、
その部分にどうやって魏が成り立ったのか、どういった人物がいたのかを書いています。
その中の一つに、『倭人伝』という部分があり、ここに『卑弥呼』(ひみこ)についても書かれているのです。
そうなんです!
日本に今も伝わっている『卑弥呼』についてや、
『倭の国』などの記述については、この陳寿が行ったのです。
現在も日本史の中でも謎の多い日本古代史ですが、
その解明に役立つ情報をこの時に書きあげたのは大きな功績ではないでしょうか。
※倭国の位置についての記述が間違っているのか、
その位置情報を現代で割り出しても、性格な位置がわからないのだとか。
ちょっとした混乱を招いているのも事実ではあります…
他作品での陳寿について
さて、ここからはそんな陳寿の現在だされている作品での出番についてです。
さすがに『三国志』の作者ですから、そんなに出番なんてあるわけが…
と思ったら、ゲーム「三国志」でも武将キャラとしてちゃっかり登場しています。
画像はコーエーさんが発売している、「三国志14」のキャラになります。
学問キャラということで、文字を書いているイラストが印象的ですね。
また、知力よりも政治力が高い設定になっています。
これは張華と一緒に政界で活躍していたことが要因でしょうか。
まさに文官!という感じです。
その他の作品にはカードゲームの「三国志大戦」にも登場。
筆者はこのゲームをプレイしたことがないのでわかりませんが、
歴史家としての表現がめちゃくちゃ気に入ったイラストです!
意外と人気のキャラなのかもしれませんね!?
筆者の感想
陳寿について今回紹介しましたがその生涯を見ると、
なかなか一癖も二癖もある人物だなあと調べるうちにわかってきました。
上記には書いていないエピソードとして、「丁儀(ていぎ)」「丁翼(ていよく)」という兄弟の人物を歴史書に書く際、その子供たちに
「米を千石くれたら列伝書いたるで?」
と言ったと言われています。
このことにブチギレた息子たちは断固拒否!
「書かなくていい!」
といったと言われています。
このことが公になった際には
「あんな立派な文章を書く歴史家なのに、結局自分の利益しか考えないんだね。」
と悪口を言われるなんてエピソードもあるくらいです。
もしかしたら事実ではないかもしれませんが両親の残念エピソードの件や李驤についてのこともあるので、本当はスレた性格をしていたのかもしれませんね。
もちろん『三国志』の作者ではあるのですが、過去のわだかまりを捨て、李驤をしっかりと書いてもよかったんじゃ…と思ってしまいます。
お父さんの李福は三国志のゲームなどにも登場しているだけに、残念です…
今回はここまで!
それでは!!
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