「三国志最強」と言われる呂布の強さは本物?裏切りを重ねて散ったその生涯とは?

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今回は、三国志の物語で最強の武将と名高い
「呂布(りょふ)・奉先(ほうせん)」
について解説していきたいと思います。

「呂布?ああ、あの最強の漢!!有名だよね!!」
という人も多いと思いますが、たしかに彼はよく物語やゲーム上で
「最強」
として描かれています。
ゲーム「三國無双」シリーズでも、初見で呂布に倒された人は多いハズ…

しかし、正史三国志で見ていくと…
「あれ?最強っていうけど、本当は違うのでは??」
と思えることがいくつも出てきたのです。

今回はこの呂布が本当に最強だったのかを、その生涯を振り返りながら徹底解説していきますので、ぜひ最後まで御覧ください。

呂布簡単プロフィール

出身地:并州五原郡九原県(現在の内モンゴル自治区包頭市)
生年月日:不明
没年:199年2月7日

丁原配下時代

呂布は幼い頃から、その勇猛さと武術が長けていたり、腕力が強いことが有名で、
当時呂布の出身、并州刺史を務めていた「丁原(ていげん)」という猛将に目をかけられます。

丁原は馬術がうまく、賊が出た際は誰よりも戦闘に立って戦うほど血気盛んな人物です。

そんな人物の元で仕えるようになった呂布。
しかし当時の記録が乏しく、当時呂布がどんな活躍をしていたのかは詳しくわかりませんが、役職として筆記係の「主簿(しゅぼ)」に任命されて働いていたことがわかっています。
しかし、丁原は官吏の能力(今で言う公務員の事務能力)は乏しかったようで、彼の性格上、呂布を始めとしてその配下も彼に振り回されていたのかもしれません。(あくまで想像ですが…)

しかし呂布はその持ち前の腕力や武芸、騎馬を操る能力が非常に高いことから、古の武将「李広(りこう)」になぞらえて、「飛将(ひしょう)」と呼ばれて名声を得ていました。
そのため呂布の名前は地元だけでなく、中華でも広く知られていたようです。

ある日、当時の帝だった「霊帝(れいてい)」が亡くなり、権力争いが始まります。
当時は帝の補佐として活動する「宦官(かんがん)」と、帝の奥さんや親戚一同の勢力「外戚(がいせき)」権力争いをする真っ只中。
その後、外戚派の筆頭で大将軍だった「何進(かしん)」が宦官らに暗殺される事件が起こります。
それを知った何進の部下であり、名門の出だった「袁紹(えんしょう)」が、宮中の宦官を皆殺しにするという事件も発生。
立て続けに起こった騒乱に、都は大荒れの状態でした。
この時呂布は丁原と共に洛陽に駐屯。

すると、この混乱に乗じて西涼地域で異民族と戦って名を馳せていた「董卓(とうたく)」霊帝の子供たちを保護して都へと入ってきます。
董卓は帝の子供たちを保護した実績と、その後見人として権力を握ろうとしていました。
しかしそこで邪魔になったのが丁原です。
董卓と丁原は階級もほぼ同じであり敵対していたため、邪魔者である丁原をどうにか排除したいと考えていました。

そこで、董卓は呂布を誘うことを画策。
その作戦は見事成功し、呂不は丁原を殺害し董卓配下になることを選んだのです。

※なぜこの時呂布が丁原を殺害したのか、それについてはわかりません。

もしかしたら、役職や丁原の粗暴な言動などに嫌気がさしていたのかもしれません。

呂布の出身地では、ある意味実力主義的な部分もあり、自分よりも劣ると感じていた丁原に対して、もしかしたら反旗を翻すチャンスをうかがっていたのかもしれませんね。

何はともあれ、これが呂布の最初の裏切り行為になります。

董卓配下時代の呂布

董卓配下となった呂布は、呂布の生涯の愛馬となる「赤兎馬(せきとば)」という名馬を与えられ、ますます存在感を増していきます。
それもそのはず、董卓は実験を握った後は常に呂布に身辺警護につかせ、自分の意にそぐわない者はすぐに誅殺してまわったのです。
呂布は番犬というだけでなく武力の象徴としていたため、誰も逆らう者が現れないようにしていたのですね。

そんな董卓に対し、袁紹を始めとする各諸侯が連合を組んで反攻作戦決行。
董卓はこれに、自身の配下である呂布たちを迎撃に向かわせます。

しかし、陽人の地にて反董卓連合軍の「孫堅(そんけん)」に敗北。
董卓軍の「華雄(かゆう)」が討ち取られるなどで惨敗となります。

※当時この戦いでは、「胡軫(こしん)」と呂布などが迎撃に当たっていたのですが、
この胡軫、短気で傲慢な漢だったようです。

部下からも信頼されておらず、呂布はそんな胡軫のことを嫌っていました。
途中から董卓配下となった呂布が、日々優遇されていることに不満を抱いていたのかもしれません。
こうして仲間内での連携が取れていない状態だったため、呂布たちは孫堅に敗北することになります。

こうした敗戦の報告を受けた董卓は長安へと逃走。
洛陽を焼き払い、追ってが来られないようにして逃走したのです。
この後しばらくして、反董卓連合の諸侯らが内輪もめの後解散。
再び董卓の時代が始まろうとしていました。

董卓の暗殺

董卓が長安で実験を再び握ろうとしていた矢先、董卓について来ていた「王允(おういん)」という人物が、数人の仲間と共に董卓を暗殺する計画を立てます。
その中で、呂布もその計画に加わらせようと画策。

呂布は董卓と父子の絆を結ぶほどの関係性だったのですが、呂布は董卓の侍女と密かに結ばれていました。これが露見すれば、死罪になるかもしれません。
また、董卓は些細なことで手戟を投げられるなど、粗暴な態度に不満を持っていました。
そんな呂布は、王允からの誘いに心揺らがないはずがありません。
董卓の恩義に頭悩ませた呂布は、結局暗殺計画を実行。
董卓を暗殺するのです。

※董卓の侍女については
この後正史にはでてきません。

しかし「三国志演義(さんごくしえんぎ)」ではこのエピソードを題材にして、
王允の娘で絶世の美女「貂蝉(ちょうせん)」というキャラが登場します。
貂蝉が呂布と董卓を誘惑し、仲違いをさせることを画策する重要人物ですが、
「呂布が董卓を暗殺する」という部分は正史も演義も概ね同じ流れになります。

流浪時代

董卓暗殺後は王允と呂布が実験を握ることになり、特に呂布は董卓を倒した英雄として「奮武将軍(ふんぶしょうぐん)」という位に出世します。
しかし董卓配下の「郭汜(かくし)」「李傕(りかく)」たちが長安を襲撃してきます。
呂布は郭汜を一騎打ちで破るも勢いある軍勢に太刀打ちが出来ず、王允を助けようと呂布は駆けつけますが殺害され、部下を引き連れて仕方なく長安を去っていくのです。

その後の呂布はあちこちをさまようことになります。

董卓に恨みを持っていた「袁術(えんじゅつ)」を訪ねてみるも、袁術は受け入れてもらえず追い払われ、北の袁紹を頼っていきます。
袁紹はちょうど、黒山賊の「張燕(ちょうえん)」との戦闘真っ只中。
呂布は黒山賊との戦いに参加し、見事勝利。
賊を散り散りにさせることに成功します。

この後呂布は袁紹に兵の増援を求めますが、これを拒否。
呂布の将兵たちはこれを不満に思って各地で略奪を行ったため、袁紹は呂布軍討伐隊を結成、呂布たちに向かわせますが、呂布は袁紹の部隊と交戦、これを蹴散らします。
袁紹はこの出来事で呂布を恐れたのだとか…

その後呂布は南に向かい「河内(かない)」という場所で勢力を広げていた「張楊(ちょうよう)」を訪ねます。
張楊は丁原配下時代からの同僚であり、董卓配下時代も董卓配下として呂布の同僚になっていた人物です。ある意味呂布の一番の友人とも言える間柄だったのです。
しかし張楊は長安の郭汜や李傕らが呂布をお尋ね者として扱っており、呂布を突き出そうか悩んでいました。
そこで呂布は、張楊の「困った人物に手を差し伸べる」という義理難い性格を利用し、居座れるように説得。
呂布はしばらくの間張楊の元で過ごすことになるのです。

その後、「曹操(そうそう)」配下の「陳宮(ちんきゅう)」や「張邈(ちょうばく)」たちが曹操に反旗を翻す事件が発生。
張邈は親交があり、董卓を討った英雄として名を馳せていた呂布を軍勢に迎え入れようと誘い陳宮らに相談し、呂布を迎え入れることにします。
呂布はこの誘いに乗り、曹操軍へと侵攻を開始したのです。

奇襲により、曹操軍配下の「夏侯惇(かこうとん)」が守る濮陽を制圧。
これをきっかけに曹操が支配する城が次々と呂布軍に寝返る形となります。
しかし、曹操軍配下の「荀彧(じゅんいく)」「程昱(ていいく)」たちの活躍により曹操軍の城を全て落とすことができず、戻ってきた曹操軍本体と激闘。
呂布軍と曹操軍は兵糧不足により決着がつかず、1年以上の激闘の末に曹操軍に協力した袁紹軍により呂布軍は敗北。
徐州地域に勢力を作っていた「劉備(りゅうび)」の元へ向かうことなります。

一勢力として確率する呂布

劉備は呂布たちを暖かく迎え入れてくれます。

これに呂布は感動し、劉備に妻を紹介、妻の寝台に座らせて酒を酌み交わし「弟」と呼ぶほど劉備と仲良くなろうとします。
しかし劉備は馴れ馴れしく、さらに言動一つひとつが一貫性がないことに不愉快になり、内心呂布を信用していませんでした。

その後劉備は袁術と対立し、軍を出して討伐に向かいます。
劉備がいなくなったのをいいことに、劉備の本拠地である「下邳(かひ)」を奪い取ることに成功。
劉備は泣く泣く呂布に降伏し、呂布配下となってしまうのです。

※この後、呂布配下となった陳宮が袁術を手を結んで反旗を翻そうとしますが失敗。この頃から呂布と陳宮の仲が悪くなってきます。

また呂布配下とは言え、劉備も半分独立勢力状態で徐州の一部地域に駐屯していた劉備に袁術が攻めてきます。
そこで呂布は仲介として入り、弓矢を戟に当てたらお互い軍を引くことで撤退させる約束をし、見事命中させて軍を退かせます。

その後呂布は劉備が1万の兵を集めていることを知り、劉備を攻撃。

「小沛(しょうはい)」にいた劉備は敗走し、劉備たちは曹操の元へ向かうこととなるのです。
こうして徐州一体を制圧した呂布。
しかし勢いがある呂布も、終わりが近づいて来ていたのです。

呂布の最後

袁術は勢いが大きくなってきた呂布に対し、和睦の印として呂布に婚姻の話を持ちかけます。
しかし呂布は昔、袁術が自分を迎え入れずに冷たくあしらったこと例に出し、婚姻の使者を捕らえてしまいます。
これに起こった袁術は数万の大群で呂布を攻撃。
呂布は部下の陳圭の進言により、袁術との和睦を断ったのですが思わぬ反撃に
「話が違うではないか!」
と激怒

しかし陳圭らの機転により、袁術配下の武将
「楊奉(ようほう)」「韓暹(かんせん)」らを離反させることに成功。
これにより形勢が逆転し、呂布は勝利を治めたのです。

※袁術は当時自ら皇帝を名乗っており、劉備や曹操たちは対袁術に動いていました。
袁術配下にいた「孫策(そんさく)」も袁術が皇帝を自称したことで離反。

呂布軍に敗退した後に曹操軍にも敗退。
勢いが完全に失墜した後に袁術は病死することになります。

その後呂布は独自勢力を築いていた「臧覇(ぞうは)」一派と交戦。
袁術とも和睦し、曹操軍に身を置いていた劉備が小沛にて勢力を保っていたため、再び劉備を攻めます。
しかし今回は曹操が自ら軍を率いて参戦。
呂布軍対曹操軍&劉備軍(劉備軍の数は少ない)となったのです。

呂布は陳宮など、家臣からの意見を聞かずに下邳城に籠城。
これに曹操軍の「荀攸(じゅんゆう)」や「郭嘉(かくか)」たちの策略により水攻めを行うことになります。
水攻めをされた呂布軍の兵たちは次々と戦意喪失。
最後には呂布は配下の者らに裏切られ、縄をかけられてしまいます。
こうして曹操軍に連行され、陳宮たちと共に処刑されることになったのです。

※ここで有名なエピソードとして、呂布の命乞いがあります。

呂布が捕縛された際、呂布は曹操に
「貴殿が歩兵の指揮をとって、俺が騎兵の指揮をとれば、天下なんてあっというまに平定することができるぞ!」
と、自分を処刑せずに登用すればいいと願いでます。
しかしそこで劉備が
「丁原や董卓など、過去に主君を何度も裏切っています。それを忘れてはなりません。」
と進言。
これを聞いた呂布を劉備をにらみ
「一番信用できないのはお前だ!!」
と言った…というエピソードです。

この後処刑されるのですが、劉備と呂布はお互い主君を裏切る気持ちがあった者通し、何か同族嫌悪的な部分があったのでしょう。
ただ、劉備の場合は配下の者や世の中の人たちの意見を尊重して裏切る。
呂布の場合は自分のために主君を裏切る。

という、大前提となる部分が違うんじゃないかと思いますね。

呂布は最強の武将だったのか。

では本題の、「呂布は最強の武将だったのか」
というところに着目しましょう。

はっきり言って筆者としては「最強ではない」
と考えています。

もちろん、武勇が非常にすぐれた人物だったの事実でしょう。
しかし何度も負けているのもまた事実。

今回とりあげている戦いが、どうだったかを一覧にしてみました。
呂布✕  対 孫堅○
呂布✕  対 郭汜&李傕○
呂布○  対 黒山賊✕
呂布○  対 袁紹✕
呂布✕  対 曹操○
呂布○  対 劉備✕
呂布○  対 袁術✕
呂布✕  対 曹操○

いかがでしょうか?

○が勝った軍なのですが、勝率としては50%くらいでしょうか?
野球のバッターなら50%の打率は、もはや最強クラスでしょう!
しかし戦国の世界じゃ、そうはいきません。

最終的に処刑もされているので、三国志での最強武将かと言われると、ちょっと疑問になってきますね。

ただし一武将としてはトップクラスに強かったのは確かですし、特に騎馬隊の指揮はダントツにうまかったのは確かでしょう。
そのため、「上位クラスの武将」
と筆者は見ています。

また、呂布は生涯において一番曹操を苦しめた人物でもあります。
曹操軍がたった3つの城を残して後はすべて離反。
孤立無援の状態で心を折ったのは人物は、後にも先にも呂布だけです。
なので、対曹操に対してはかなりの強敵だったと言えるのではないでしょうか。
まあそこから復活する曹操もそうとうなのですが…

筆者の感想

呂布はゲーム上でも最強クラスで描かれていますが、無双シリーズではそれが顕著にあらわれていたのは冒頭で説明した通り。

では他ゲーム作品、とくに筆者が好きな「三國志」シリーズの最新作ではステータスがこうなってます。

「三国志最強」と言われる呂布の強さは本物?裏切りを重ねて散ったその生涯とは?

うん、武力ガン強。
その他の
知力・政治はほぼ皆無…
でも統率能力は高いですし、親分気質なところは呂布の魅力ではありますね。

ただまあ戦術などに、天下無双などの演義補正がかかっているので、その点などはゲームの使用上しょうがないですね。
ちなみに使用感としては。やっぱり部隊を率いたらめっちゃ強いですね。
ただ特別に強いかと言われたら、関羽などの方がやっぱり強いです。

また、本人が正史でも自分の感情などに右往左往してるので、もしかしたら一本筋の通ったことをしていれば、その歴史も変わっていたのかもしれません。
ただそうしちゃうと、董卓を倒す人がいなくなってしまいますかね。

今回はこの辺で。
面白い呂布のエピソードなどありましたら、コメントなどいただけると幸いです。
それではまた。

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